2010年05月27日

アルベルド・カルペンチール神父様個展

先週から、過労と感染症で一週間寝込みました。
整形外科・内科・耳鼻咽喉科で診察しました、処方された薬は、一週間分の抗生物質。調べたらピロリ菌の除菌にも使う薬で、お腹がゆるくなって辛かったです。
ようやく、薬も飲み終えて、体調が回復してきました。
ちょうど寝込んでいる時に、ALS患者の人工呼吸器をはずした医療関連記事を読み、どんなにか辛く苦しい状態でしょう…と、呼吸できることの有り難さを実感しました。当たり前のことなんてないのかもしれません。

今日は、父に「らっきょうの塩漬け」を作りました。明日、宅急便でおくります。母の味を思い出しながら、毎年作るようになりました。父の喜びの電話が何よりも嬉しいです。

さて、カトリック美術協会でもお世話になりました、
【聖書と典礼】の表紙を飾っている
「ステンドグラス作家のアルベルド・カルペンチール神父様」の個展が「銀座エインカレム」で開催されます。

5月29日(土)から6月6日{日}まで、
ステンドグラス・油彩・手彩色版画など主イエスのご生涯を描いた作品です。東京都中央区銀座4-5-1

http://www.kyobunkwan.co.jp/EinKarem/eventkarpen.htm

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【細川護煕展】のDMが届いています。
「細川護煕展」6月1日(火)から5日(土)まで、
日本橋「壺中居」で。10時から18時です。
ご興味のあるかたは是非、いらしてください。細川元総理はずっと在廊予定だと思います。
今年の案内状には、「志野茶碗」が掲載されていました。

「十字架の花」ドクダミの花。白い十字架。匂いを嫌う人もいるが、私には小さい頃タライで行水してもらった思い出と共に、ドクダミの香りは懐かしい香り。今年は庭にドクダミが沢山。
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posted by 丸山 陶李 at 23:25| 夢は枯野を

2010年05月02日

「いのち」は成長し続ける

人間は、その「いのち」の終りまで変化し続けることができる存在であり、人との関わりを通して、生涯発達が実現していくことを思う。肉体は衰えていくが、「いのち」は成長し続ける。

青紫色の実をつける「ムベ」という植物の存在を知ったのは、それほど昔ではなかった。恩師の佐藤正明先生の水彩画の中にある「ムベの実」を拝見した時、「アケビに似ているけれど、ムベの実の色、青紫色は美しいなあ」と思った。

ムベの実を知ってから数年後、たまたま園芸店で「ムベ」の苗を見つけ、庭に植えた。昨年まで実は数個つくだけだったが、今日見たら、白い花が沢山ついていた。アケビの花は黒紫の小さな花で大変地味だが、ムベはラッパ形の白い花で内奥が、ほんのり紫色だった。

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ムベの青紫の美しい実が、今年はたくさんつくのかな。

人間も、日々肉体は衰える部分があるが、「いのち」は成長し続ける。どんな状態になっても、生命の煌めきの尊厳は失われることなく、成長し続ける。

今日、満開のムベの花を見ながら、やっと花をたくさんつけるまでの生命の存続と忍耐について考えた。土にしっかりと根を張り、必要な養分を摂取し、満開の花をつけるまで、ゆっくり成長していたのだ。植物の「寿命」というのも限られているのだろうか?屋久島の縄文杉のように、長い間成長し続けた植物もあるが、毎年枝を伸ばし花をつける草木・・様々な植物の成長の終わりとは何だろうか。すべての生命に限りがあるが、各々の生命の長さと成長は、どのように関係しているのだろうか。

長かろうと短かろうと我が人生に悔いはなし・・・と歌った、裕次郎さんをちょっぴり思い出した。若い頃、可愛がっていただいた。
posted by 丸山 陶李 at 20:29| 夢は枯野を

2010年05月01日

文字を読むということ

動いていても、止まっていても、それだけでは十分ではない・・・と、感じる毎日。

何が足りなかったのかな?と自問する。

本を読む時間。そして、文字を読むという時間。
文字と文字の間の空間をも含めて、良い言葉に出会うと、読んだ文字、触れた言葉が「祈り」となることがある。

現在、私にとって短くても文字に触れ、読み、黙想する時間が貴重な祈りになっている。

祈りが足りない時は、自分が渇いていくような、心の潤いが失われていくような感じがする。

一日一句。良い言葉に触れ、文字を読むことを続けてみよう。
聖書はもちろん、良い言葉の宝庫だ。

今日は、また、マザー・テレサの言葉を一日の終わりに味わった。沁みてくる…。

マザー・テレサの言葉
「学ぶチャンスを逃さないようにしましょう。
うぬぼれたり、ぶっきらぼうだったり、気分屋だったり、自己中心だったり、こんな自分でいることは、いともたやすいことです。
私たちは、もっと素晴らしいことのために創られたのです。
なぜ心の美しさをだめにしてしまうようなことに自分を陥れるのでしょうか。」
posted by 丸山 陶李 at 00:57| 夢は枯野を

2010年04月15日

愛犬を見送って

4月14日(水)夕刻、愛犬ラムが息をひきとりました。
本日、ご夫妻で心を込めてペットの火葬と供養をしてくださっている「愛心ペットセレモ」で葬儀をしていただきました。

愛心ペットセレモのご主人の「いのち」に対する思いと姿勢に心打たれました。
何事も、「思い」と「まなざし」が感動を呼び、波動が広がるのだなあ、と深く感じるものがございました。

息を引き取る時に見守れなかった愛犬ラムに対する、私の心の重荷を、愛心ペットセレモのご夫妻の対応が取り除いてくださったように感じました。

前の晩、臨終が近い状態で夜、緊急に獣医さんに駆け込みましたが、残された時間は、あと一日程度との診断でした。
最後、苦しまないようにと獣医さんに「安楽死」についても相談させていただいていたのですが、私自身仕事で在宅できない日であり、苦しんだ時の安楽死の処置にも連れて行けず、
私の帰宅を待ちながらドアの前で息をひきとっていた愛犬の臨終の苦しみと孤独を思い、一緒にいられなかったこと。声もかけられず、抱き上げることもできなかったことを、私自身悔やんでいました。

遺体を、庭の花々で埋めました。香り高いローズマリー、真っ白い大輪の水仙、咲き始めの白い山吹の花。あそんだおもちゃや、衣服、娘の幼稚園で昼寝用にと作ったタオルケットにくるんで「主の祈り」が印刷された祈りの本もいれました。600度くらいで焼成すると、喉仏が吹き飛ばされず、骨が綺麗に残ることも知りました。

喉仏が「観音様の姿」だということを、今日、骨を拾いながら、きれいな姿で焼き上がった愛犬の喉仏を見せていただき、ご主人の説明で知りました。観音様が手をひろげ、手を差し伸べ、引き寄せている姿が喉仏でした

こちらの愛心セレモには、「紙の博物館(東京)」に展示されていた、世界で唯一の「折り紙」を固めて彫り上げた観音様がペットたちに手を広げておられました。

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こんなに「いのち」への思いを込めて、個別に非常に良心的な料金で対応してくださるペットセレモは珍しいと思います。皆さんに安心して強くお勧めできますので、パンフレットも頂いてきました。

ちょうど、埼玉のペット埋葬業者のペットの遺体を不法投棄したニュースの後だけに、なおさら、ご夫妻の対応とお気持ちが沁みました。

愛心ペットセレモでは「合同火葬」でも、ほぼ「個別火葬」にしてくださるのです。ご主人の良心のこだわりだそうです。

観音さまの写真の、一番手前が愛犬ラムの骨壷です。
私のWEBサイトでも、何回も皆さんに紹介させていただいておりました、愛犬ラムは、「虹の橋のふもと」に旅立ちました。
皆さんからの暖かいお言葉、ありがとうございました。愛犬ラムに代わり心からお礼申し上げます。

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posted by 丸山 陶李 at 21:15| 夢は枯野を

2010年03月23日

「まなざし」

自己は他者へのまなざしにおいて自己となります。ひと言でいえば、自己を与えることによって自己は自らの存在を同化し把握して、自己の存在に縛られることがなくなるのです。
−モーリス・ズンデル神父の言葉−

「まなざし」はフランス語ではregard。そして動詞のregarderは「見る」という意味のほか、「考える」という意味もある。まなざしを注ぐということは、考えるということでもある。心をそこに集中し、思いを交し合うということである。
 −阿修羅と現代人の癒し− 立川昭二

ああ・・・
やはり、つながっていた。
「まなざし」という言葉が、ずっとずっと気にかかっていた。
人への「まなざし」、自我を忘れて自己の存在を、もはや超えて、他者へのまなざしになりきること。
やはりそうなのだ・・・。

「まなざし」を持ったときに、大いなる観想の喜びがあった。
素晴らしすぎるので、そっと心の中で鐘を鳴らす。
本当に、あなたに仕えさせていただくことは素晴らしい。

神様に触れさせていただいた。。。

サクランボの花が満開を過ぎた。
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posted by 丸山 陶李 at 23:43| 夢は枯野を

2010年03月02日

一場春夢

「一場春夢 残りし跡は 梅華皮に」

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この茶碗は、「梅華皮(かいらぎ)」の出方、「釉なだれ」の景色が面白かったので、撮影しておきました。

私の井戸茶碗を、待っていてくださる方々がいる。
しかし、焦って生半可なモノをお届けするわけにはいかない。
「梅華皮あれど小貫入なし。形良けれど重さこれに非ず。形重梅華皮ありとも小貫入あらず。すべて良くとも梅華皮おもしろくもなし。」
すべて私が納得できるものを。まだまだだろう。

「たまたま出来上がったから見てください。なんていうのはプロの仕事じゃない」。
とは、某工学系教授のTweet。そのとおりだと思う。
非常に含蓄のある言葉。
絵画にも工芸にも通じている故に、自分のライフワークの井戸茶碗の発表は、まだまだかかると思う。
posted by 丸山 陶李 at 21:12| 夢は枯野を

2010年02月18日

「灰の水曜日」の恵み

昨晩の「灰の水曜日」のミサ。告解もさせていただけて大きな恵みでした。今までにないほど、はっきりくっきり額に十字架を灰でつけていただいた(笑)。長年の友人とミサ後、顔を見合わせて「今年は大きな十字架だぁ」と冗談を言い合った。彼女は乳癌の手術を受けてからも、快活。

今朝、雪の中、窯を見に行く、生徒作品の素焼き、無事だった。感謝。今週は下絵付けだよ。陶房で昨日挽いた茶碗の削りをしていたら、良いタイミングで、雪道を釉薬原料が届いた。ありがとう、お気をつけて、と見送る。雪道は人への思いを暖かくする。

五年前に縁在り、手にした絵。画家さんからメールが届いている。暖かい地方から、なんと北海道のラベンダーの地へと引っ越したとのこと。彼女と一緒の生活になったことが、ほのぼのとしたものを文面から感じさせる。画風も少し変わっていた。人の変化は作品にすぐに現れるね。

藤田まことさん、ご逝去。ご冥福を祈ります。「明日への遺言」(大岡昇平:原作)で岡田資中将を演じられ、ひどく感動してこの映画から帰宅したのが私の見た最期の映画になったなあ。「明日への遺言」公式ページに感想が掲載され、今も残っていた。 http://bit.ly/9bt9F4

画像は、蹴轆轤と挽きたての大井戸茶碗。20100215ooido.jpg
posted by 丸山 陶李 at 11:59| 夢は枯野を

2010年02月15日

灰の水曜日にあたって

17日は【灰の水曜日】教皇四旬節メッセージ「人のからだに入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである.人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」http://bit.ly/aiWJ6D

日本にキリスト教を最初に伝えた聖フランシスコ・ザビエル。イエズス会の宣教師としてポルトガルからインドを目指した大海の旅のなか、多くの病人たちの汚物の処理をし、天に召される人々のために深く祈りを続けたという。日本への宣教もさることながら、この航海の中のザビエルの姿に深く感動する。

パリのソルボンヌ大学で父のような学者になり、楽な生活を夢見ていたザビエルは年上のイグナチオ・ロヨラと同室することになる。当初、ザビエルは神や霊魂のことばかり話すイグナチオが好きになれなかったが、イグナチオの一言が一生ザビエルの胸に焼き付き従うことになった。出会いは摂理だったのだ。

鹿児島で人を誤って殺してしまったヤジローは、ポルトガル船の船長からザビエルを紹介され、罪のゆるしを受ける。そしてヤジローとの出会いがマラッカの丘の上教会にいたザビエルを日本へと向かわせる契機となった。ポルトガルからゴア・マラッカ・日本へと東に向けてザビエルの宣教の道は導かれた。

先日来、Sr.和田町子さんの著書「ミサの物語」を読んでいるが、あらためて「聖フランシスコ・ザビエル」の日本への宣教と、茶道との関わり、秀吉による日本26聖人の殉教と、多くの先人たちの深く素朴な命がけの信仰に鑑み、自分の信仰と生活、陶芸と感じ入る。これからも十字架を刻み続けます。

「心のともしび」で聖フランシスコ・ザビエルや他の聖人についての動画が配信されている。四旬節の黙想の一助に、ご存知の方も多いと思いますが、URL貼ってみます。 http://bit.ly/90tMsW
posted by 丸山 陶李 at 16:35| 夢は枯野を

2010年02月07日

Twitterから

「水を掬えば 月 手に在り 花を弄べば 香 衣に満ち」(虚堂録)…あまりに美しい言葉、情景が浮かぶ。そのうえ、心に沁みました。しばし味わい、心にメモ。茶碗の銘に、インスピレーションを頂戴しました。

九谷近郊の教会からの注文。某陶芸家とも大変親しいのに私に注文してくださった。それがプレッシャーになり、轆轤を挽きながら、焼成の心配が頭を過ぎる。窯の神に祈った陶工たちも、一窯を台無しにする窯焚きがあることを熟知していたからこそだろう。窯焚きの度に思い知らされる。神との共同制作だと。

祖母から父へ、そして私へと継がれた言葉がいくつかあるが、「思えば思われる」という一言は、簡素な中に味わえば味わうほど深いものを感じる。思いを向けることが、祈りにもなり、思いを受け取ることが感謝につながる。差し出すも、受け取るも、器次第ということだろうな。

2月5日。「日本26聖人殉教者」祝日。長崎に行った時、真っ先に「西坂の丘」に向かった。船越保武氏の「二十六聖人」像の前で跪き、ロザリオの祈りを一連捧げた。豊臣秀吉の命令によって長崎で処刑された26人のカトリック信徒。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による初の処刑だった。

舟越保武氏は、現カトリック美術協会を創設した一人。独学で石彫をはじめ、佐藤忠良と共に戦後日本を代表する彫刻家となった。脳梗塞で倒れ、右半身が不自由になったが、死の直前まで左手で創作を続けた。以前、晩年の左手だけの制作の様子をTVで拝見し、生涯この道を、と勇気をいただいた。

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posted by 丸山 陶李 at 11:17| 夢は枯野を

2010年01月23日

モーリス・ズンデル神父の言葉

真の芸術家や科学者たちに、彼らの探求の対象を何か宗教的な雰囲気で包ませるのは、多くの場合、漠然としていても、神を身近に感じるこの「直感」ではないでしょうか。自分たちが神の打ち明けにあずかっているかのように、彼らの使命が、宇宙のすべてを、その印を帯びている。

神がはっきりと現れるのは、つねに人間の内面化と解放によってです。いのちとは関係なしに観念的に悟られた神ではない真実の神は、このようにしてしか知られることはありません。それは私たちを回心させ、変容させ、私たち自身の自己中心主義を乗り越えさせ私たちの存在の根本にまで導く

最悪の無神論は、神を生きずに神を語り、愛することなく愛を論じる、一体その愛の内容は何なのでしょうか。人間は自分の不安、自己中心主義、個人または集団的な生物学的動きのうちに自分をも他人をも滅ぼしてしまう誤りのなかで孤独にとどまるでしょう。−モーリス・ズンデル−神は永遠の今。

昨年のクリスマス待降節から、モーリス・ズンデル神父の著書で黙想を続けてきた。つまるところ、アシジの聖フランシスコの貧しさの中に、ズンデル神父は心粋し、フランシスコに倣い、清貧の生活を思ったという。

神父様の霊性は、徹底的な優しさと、かくれんばかりの地味な服装にもみられる。4冊の著書が本棚に置いてあるが、十年以上に購入した本が、読まずに積読されておたので、新たに購入しなくてもことたりる、ということで読み始めましたら、もう、ズンデルファンになってしまって、でもお陰様で、たくさんの良い黙想をいただきました、

素晴らしい神父様の著作。深く観想へと導いてくれています。

posted by 丸山 陶李 at 01:49| 夢は枯野を