2012年11月02日

慶尚南道・泗川を訪ねて[2]

慶南茶碗公募展の学術会議が25日(木)に予定されていたが、
私は前日の24日(水)に韓国に到着した。

金海(プサン)国際空港は、仁川(ソウル)国際空港と比べると規模が小さいし軍事空港でもあるため、空港に到着すると写真撮影は禁止されているとアナウンスが聞こえてきた。

空港を出ると、お迎えの人々が各々相手の名前を書いた用紙を掲げている光景に出合う。
これは仁川でも見かけるが、仁川は大きい空港なので、私の名前を掲げている人を見つけるのが大変だったが、金海空港では、すぐに見つけることができた。

男女二人の方が、私の名前を掲げている姿を発見し、声をかけると、
まずびっくりしたらしく、お二人とも目がテンになっている。

女性は「さゆり」さんという日本人で通訳、男性は泗川市在住の作家(書き物)ハ先生であった。

お二人曰く「え?すっかり男性の先生だと思ってお待ちしていたのに、先生は女性だったのですね。」
とのこと。

男性と思われてもしかたないけれど(笑)、まず今回の訪韓では「男性」だと思われていたことが思い出ともなりました。

ホテルまで送ってくださって、その後も、この通訳さんが滞在中はいつも同行してくださって助かりました。学術会議の通訳さんは、また別の方で、専門用語もよく理解し素晴らしい通訳をしてくださいました。
二名の通訳さんをつけてくださったご配慮、有難いことでした。

ホテルでは一人で夕食、レストランのおすすめもあって牛骨肉のスープと御飯を注文しました。
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その後、ホテルから泗川の三千浦港の夜景を撮影。
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翌日、昼食をセミナーの講師の皆さんといただきました。
泗川で一番海鮮料理の美味しいお店だそうです。
写真の「水サラダ」には鮑が入っていて美味!
その奥に見える焼魚は「ぐち」です。「ぐち」を食べさせれば逃げて行った嫁さんも帰ってくる、と言われているほどおいしい魚でした。

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学術会議とオープニングセレモニーを終えて、
泗川文化芸術会館前で、お茶をごちそうになりました。
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毎日一回は、お抹茶をいただかないと物足りない私ですが、美味しいお茶でした。

学術会議の通訳をしてくださった「権」さんとお別れの時に記念撮影。
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彼女が私の胸の十字架を見て、「先生、もしかしたらカトリックですか?」と尋ねるたので
「はい、そうです。」と申し上げると、
「私もカトリックです。これから聖歌隊の練習に行きます。日本人でカトリックの方にお目にかかるのは珍しいことです。」と仰っていました。

二日目の「茶碗公募展の審査」とその日の写真は、またつづきで。。。
posted by 丸山 陶李 at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 夢は枯野を

2012年10月29日

慶尚南道・泗川を訪ねて[1]

韓国慶尚南道・泗川市で開催された「2012年慶尚南道茶碗公募展」から帰国しました。

「泗川市/三千浦をホテルから望む」
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「慶南茶碗公募展2012」のカタログ013.jpg

泗川市(Sacheon/サチョン)は文禄慶長の役で「泗川の戦い」が繰り広げられた所、高麗茶碗を求めて、この地と近郊から優秀な陶工たちが九州や萩に招聘され、窯を開いています。

金海市で毎年開催されている「金海粉青沙器祭り」の中で続いてきた「茶碗」の公募展だけが、今年から泗川市に会場を移したということでした。

25日は、泗川市の芸術会館で「茶碗」のセミナーが開催され、講師として日本人は私が一人招待されました。韓国の大学で日本語講師を三つも担当している通訳さんが、「日本における茶碗の過去・現在・未来」について私が準備した原稿を、通訳してくださいました。事前に私のホームページにアクセスしてチェックしてくださったと後で伺いましたが、非常に優秀な通訳さんでした。他の講師の皆さんのレクチャーも、私に同時通訳してくださいました。

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高麗茶碗発祥の地として、今後に向けて慶尚南道の発展について、茶碗について、大学陶芸科開設について、この地の博物館がないことなど、様々な専門分野の講師の皆さんから、熱心な提言が続きました。司会はMBSテレビのアナウンサー(中央)でした。

セミナーの後、芸術会館正面に設置された野外ステージで、「慶南茶碗公募展」のオープニングセレモニーがあり、テープカット!お隣の女性は、慶尚南道の議員さんです。

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翌26日は、「慶南茶碗公募展」の審査員として芸術会館二階の展示室で審査でした。
会場の様子と、審査光景、審査後ホッとして審査員の皆さんと記念撮影。
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審査後、芸術会館の外で突然、轆轤のデモンストレーションを頼まれ、ヒールで轆轤初体験しました(笑)。
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続く・・・


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2011年12月24日

Happy Christmas!!

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2011年12月20日

Hot spot

環境省は19日、東京電力福島第一原発の事故による放射能汚染で東北・関東地方の8県の102市町村を国から除染の財政支援が受けられる「汚染状況重点調査地域」に指定し公表した

指定された102市町村とは・・・放射線量が毎時0.23マイクロシーベルト以上で事故による追加被曝(ひばく)線量が年間1ミリシーベルトを超える区域があることが条件。

市町村名を活字で見ても、ピンとこないが、指定された102町村のマップを見ると、福島第一原発を起点とする放射能汚染が、どのように飛散しているかが如実にわかる。

福島第一原発と同じ福島県でも、除染区域として半分は指定されていないが、
私の生活している茨城の南部である取手市は、除染状況重点調査区域に色づけされている。

「汚染状況重点調査地域」マップ(asahi.comへ)

先週末、地域の会合があった。
市役所から地域毎に放射性物質測定機器の貸し出しがあるので、各地域毎に数カ所の計測をして、
データを国に報告する、というものだった。

そのために、市では一台10万円以上の価格を支払って、放射能測定器を40台購入したという。
(約500万円ですぞ・・・!)。

今年度、地域の防災担当役が持ち回りで、我が家となっており、その会合では機器の取り扱いについて説明があるという連絡を受けた。

除染対象市町村には国の予算がつく。
しかし、胸の中でモヤモヤする重い気持ちを抱えていた。

近隣は農家である。
「茨城のコシヒカリ」を初めとして、農作物を出荷している。
高い数値の放射能が計測されれば、「風評被害」どころか、死活問題。
低い数値であったなら?・・・つまり、取手市に国から除染の予算が来ないということになる。
この矛盾と苦悩。


事実は一つであるが、複雑な思いで、この役目を果たさねばならない。
地域の数カ所を測定しデータをとるのだ。

それを市がとりまとめ、国に報告する。

「汚染状況重点調査地域」マップを見ると、利根川を挟んで、茨城の取手市や守谷市、そして千葉の我孫子市や柏などが、このエリアに指定されていることがわかる。
利根川によって、東北地方からの風は吹き溜まりとなり、
私たちの近隣市町村を放射能汚染のホットスポットにしていたのである。

3.11の後、初めて降った雨が21日だっただろうか。
あの日、私は仕事で出掛けなければならなかった。
フード付きのコートを着用し、マスクをし、帰宅後は全身シャワーを浴びた。
事故の後の雨が、地上に舞い落ちて土を汚染することは、確実に予想できた。
原爆の後の「黒い雨」ではないが、「痛い」刺さるような雨だった記憶がある。

市役所の測定機器40台の購入に500万近くかかっている。
ごく簡易な測定器であるが。
これらが税金と思うと、40台も購入して各地区で住民に計測してデータを取るということを考えたことすら、「何を考えているんだ?」と感じる。

なおかつ、土の除染の仕方と注意書きが添えてある機器の説明文書にも腹が立つ。
「除染を各自個人でしてくれ」と言わんばかりだ。
国が除染してくれる市町村に指定されたというのに、調査結果が線量が高ければ個人で除染?

草刈の仕方まで、ご丁寧に添えてある。
まっさきに、身体の安全な方法を提示するべきだと思うのだが、最後に「添えて」あるのである。

新年早々、計測が始まるが、近隣の農家のみなさんの心境を思うと、役目とはいえ複雑な重たい気持ち。
役所の税金の使い方も納得できない。

「ただちに健康に影響を与える数値ではない。」
幾度も耳にした言葉が、今回も、むなしくこだまする。

そう。
確かに、体に異常が認められるのは数十年後。
その頃、「忘れないでいてね!」と申し上げたい。
私は、子供たち、次世代が心配です。責任を感じてしまいます。
原子力発電は安全・・・と、疑問も抱かずに電力を享受していたのですから。
posted by 丸山 陶李 at 01:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 夢は枯野を

2011年11月19日

矯めつ眇めつ

人は鏡。
長いといえば長い人生を歩んできて、自分の来し方、生き様を通して、「人」として学ばせていただいてたんだなぁ、と気づくことがある。

人々の賞賛やら、人々の批判やら、誰しも日々の中で心に浮き沈みする心模様。
それら怒涛のように押し寄せ、流され、翻弄させられたりしている時には見えていなかったものが、
まるで魂のレクイエムのような沈静なる時のなかで、それらのコアが一体なんであったのかが浮かび上がり、やがて自分の本性が明確に見えてきて恥じ入り、なおかつ人々の心のコアも見えてくるのである。

孤独を味わう時間をあえて作る必然を感じる。
孤独とはネガティブな意味合いではなく、ポジティブな意味合いの孤独である。
自らすすんで、一人山に登り、ゲッセマネの園で血の汗を流したイエスの孤独は、大きな決断と共に、
すべてをありのままに受け入れ、人々の思惑のコアを知り、こういう言葉を使うことが許されるのならば、清濁併せのみ、自分の運命を受諾する決定的な孤独であっただろうと思いを馳せる。

何故生まれ、何故死ぬのか。
そう問いかけること自体が、今や青臭く感じる。
私たちにとって確実なことは、生まれて連綿と連なる祖先たちの血を受け継ぎながら、ある時は「はい」と言い、ある時は「いいえ」と言い、与えられた命がどういう運命であろうと、「生きる」「生ききる」ことを目の前に見据え、確実な運命の一つ「死」を眼中におかず、自我の欲求と生きるための本能で、その時々を生きることを切り抜ける術を学ぶ動物である。

日常の何気ない通常の人としての営みに、動物を感じ取って、心が一瞬フリーズすることがある。
動物の方がましかもしれない。彼らは言葉を発せず、痛みにも耐え、黙って生き抜き死んでいくのである。
殺し合いもあるが、人間ほど計算高い殺し合いはしない。いわば自然の営みとしての生死の戦いである。

おそらく、死後の世界を知っていれば、私たち人間は一番まっとうな道を選べるのではないか?と思うことがある。かく言う私ももちろん死後の世界は知りはしない。「こうするとこうなる」だからこちらを選択して生きる、という計算はもしかしたら、死後の世界への選択を決定する言動なのかもしれない、と、そこまで深く考えて決定選択をすることができれば、生きる道しるべとなるだろうに、と途方もないことを考えることがある。

過程から経験を積み道を歩んでいくのが、どうやらこの世での人間の修行らしいが。
死後の世界、あるいは死そのものについて、もっともっと考えれば、なおさら良い道程が人として歩めるだろうに、と思う。

何をするにも、人と自分の関連性は否定できない。
たとえ一人、孤島に住まっていようが、生きていく以上、他との関連なしには生きられないのが地球上の生命体なのだと思い知る。

罪の連鎖が、脈々と血の中に続いているように、それを断ち切る英知も与えられている。
与えられた場所で、与えられた役割、一つの命が生き切るということは、人々に知られようが知られまいが、それをすべて知って死のもたらす意味を再考せよと道しるべを与えてくれている偉人たちも人類の歴史を刻んできた。「いいえ」と言う難しさは、この世では相当しんどい思いを覚悟することでもある、「はい」とだけ言っている方が楽であり、ストレスも少ない。

ロダンの「考える人」の彫刻が、わたしたち人間が何を考えて生きよ、と示唆しているのか。
ふと上野の森で足を止めたことがあった。春夏秋冬の移ろいの中で、根を張り生きるのか、デラシネとして生きるのか、自由である。意志は自由である。決定も自由である。しかし生命体の連鎖のなかで、それに伴い責任というものが枝葉末節広がっていくことは厄介である。

良し悪し、の二元論を述べるつもりは全くない。カミュのように人間の不条理を身をもって知る年を重ねてきたという独り言である。

矯めつ眇めつ陶片を見ながら、学ぶように、物事を様々な角度から見て学び、究極は死後、あるいは死そのものの瞬間に、自分自身の選択と生き様が、死に様に反映されることを自戒をこめて生きていきたいものだと思う。

イエスの十字架での言葉。
「父よ、あの人たちは何も知らないのですから、お赦しください。」
この言葉の深淵。
私は、何も知らないのだ。
私たちは、何もしらないのだ。
「死」を体験していないのだから。
「死後」を学ぶことはできないのだから。

矯めつ眇めつ人を見る。自分を見る。学びは果てしなく続く。
矯めつ眇めつ茶碗を見る。自分を知る。高台を見る。土を見る。人という生き物の感動を見る。心打たれるような茶碗を残したい。言葉ではなく、心から心に。魂に響く、矯めつ眇めつ眺めて心地よい茶碗を。

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2011年03月30日

私のランターン

「わたしたちの魂の『太陽』が、この世界の面から憂いと闇の跡をひとひらも残さず追い払うまで、このランターンが芯を切り整えられ燃え続けて行くように、わたしはそれのみを願っている」(恵泉女学園創立者 河合道 著:わたしのランターン)

中部大学・武田邦彦教授が緊急インタビューに応じる。未曾有の被害をもたらした東日本大震災と同時に発生した大津波によって冷却装置に致命的なダメージを受けた福島第一原子力発電所-。想定外の放射性物質が大気中に漏れ出し、世界中から大きな注目を浴びている日本の原子力政策のウラ側を大暴露する武田教授。メディアを信じられない人は必見です。

原子力保安院の大ウソ暴露!(関東エリア未放送)


この動画の最後に武田教授が語っている言葉、それに尽きると思うのです。
「万機公論に決すべし」そういう立場に立てる人じゃないと駄目なんです。
技術がもろいから、と思っているからいつまでも解決しない。
そうではなくて、「人の心」なんです。
巨大技術には、人の心が一番重要なんです。


私も、3.11からの原発事故に関して、憤りを感じている部分があるが、
それは、事故が起こったことに対する憤りではない、
事故となる以前からの体質、管理、人の扱い。
そして過去から現在に至るまでの、小さな人々の人権と命をモルモットのように扱い、
当事者の事故後の対応においても、責任回避を策略し、責任転嫁を考え、権力だけを振りかざす横柄な態度の散見に、どこに「人の心」があるのか?と感じたことが憤りの原点でした。

昨日、母校「恵泉女学園」の恩師から電話がありました。
同窓会名簿を見て被災地の同窓生の安否確認をしているそうです。
何度も茨城在住の私に電話をいれてくださったそうですが、
ようやく昨日つながったとのことでした。
(電話回線がつながったというのではなく、私が留守で電話に出られなかったことが原因ですが。)

「私の作品は半分程損壊し、陶房はこぼれた釉薬の水で水浸しで乾燥中の作品は全壊しましたが、東北の皆さんの辛苦は如何ばかりかと思うと、大震災の被災者の皆さんに何かできることがあれば、と考えています。」と恩師に申し上げると、
「あなたらしいわ。あなたのような逞しい卒業生がいることを知って嬉しいわ。」と仰ってくださいました。私は「恵泉スピリットですね」と申し上げました。

冒頭に引用させていただいた、恵泉女学園創立者の河井道先生の言葉。
恵泉の卒業式では、卒業生がランターンをかざし、そのランターンの灯火を灯し続けて行くことを胸に巣立っていきます。そのランターンの意味が冒頭の言葉なのです。
「恵泉スピリット」は、「砂漠に花を咲かしめめなん」とするスピリットです。

「和魂西才」「才を開花させるには、魂がどうであるかが大変に重要だ」
「人からどう思われようとも、自分のミッションを分かっている人」
「名も無き大衆の中に、英雄を凌ぐりりしい人達がいる」
母校の精神と、武田教授の最後の言葉が、私の中でパチンとつながりました。

小さな声であっても、私は私のランターンを、私の生き様の中で掲げ続けて行きたいと思っています。



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2011年03月23日

【緊急中継】広瀬隆/広河隆一 「福島原発で何が起こっているか?−現地報告と『原発震災』の真実」



かつて、加藤唐九郎が(陶芸に関してではありますが)【学者の言うことは、あてにならない】と書いていましたが、学者・専門家のお立場により、命に関わることまで軽く扱われるのはたまらない。

さらに、現存する危機感を直感している人々に対し「過剰反応している人がいる」などという言い回しをして一体どこに、国益や国民の安心を求めよ、と言うのだろうか?

実際、福島県から埼玉アリーナに避難してきた人々の中に、はっきりと「今まで、安心・安全だからと私たちを説得し原発を作り、こういうことになった。騙したんだ。」と言う高齢者がいらっしゃった。

現在のこの深刻な原発の問題に関する報道にも、隠された「不都合な真実」があることを、私は震災直後から、福島原子力発電所に関しては直感していた。

「ただちに影響の出る値ではない」
「現時点においては」
何百回、この報告を聞いたことだろう。


これだけの災害(原発)が起きていているのに安全・安心な原発だとまだ言い切ろうとするのか。
国民をパニックにさせないために、報道管制を敷き、海外では報道されている画像やデータをNHKでは隠蔽して報道しない。

同じパニックでも、正しいパニックが今最も必要なのではないだろうか?

北海道や関東以南の人々は、私たち関東在住者よりも、いくらか危機感が違うことも感じているし、また幼いこどもを抱えた人よりも、こどものいない人の方が(一部)、この危機に対しても楽観的でありたいという願望が強いようにも思う。楽観も良い、パニックになりたくないという願望も良い、しかし自分中心な視点では今回の事態を冷静に洞察することはできなくなるのではないだろうか。地震や津波の被災者ではなくとも、日本に住んでいる限り、原発の被災者となる可能性は否めないのだ。それが徐々に明らかになりつつある。

被曝の恐怖を熟知しながらも、命がけで作業にあたってくださった消防隊・自衛隊・警視庁等の皆さんには心から、「ありがとうございます!」と映像を拝見しながら、涙した。

しかし、政府は原子炉の冷却だと言っているが、放射性物質の洗い流しでもあること、そして私たちの地球の大切な「海」や「大気」に放射性物質を拡散させる作業ともなっていたことを、今現在、政府は言おうとしない。

同時に、知る人ぞ知る
「原発奴隷」と密かに海外でも報道されてきた原発労働者の皆さんがいることを原発という存在にはつきものであった事実からも決して目をそらしてはならないだろう。


また、大震災後の雨に打たれて私は原爆の黒い雨を思い出した。


放射能の恐ろしさは、今日明日に結果がでてくるものではない、上記のニュースで最近ようやくわかってきた被曝の恐ろしさ、それは何十年にも渡って人体を蝕んでいくこと、体内被曝は見えないし、二度と体から除去できない。上記ニュースでは、国がその責任をとることを回避してきた歴史的な事実も同時に明らかになっている。

大震災の直後に、原発のニュースを聞いて、これは非常事態だと思った。
「一刻も早く大阪方面に逃げろ」「トルコにすぐにいらっしゃい、あとのことは心配しないでいいから」そう言ってくださる海外の友達もいた。

私自身、飲料水が確保できなかった震災直後(買い占めの影響、井戸水である我が家は飲料水が手に入らないのは死活問題となった)、ガソリンも給油できない状況、銀行のATMも使えなかった。逃げるにも逃げられない状況。飲料水を長野から「送ってあげるよ」という友人もいたが、宅配便も受付を止めていた。腹をくくるしかない状況だったが、海外の友人は「あなたは勇敢か、さもなければクレージーだ」とも、はっきり言われた。それほど、海外から見ている人々には、茨城県も危険なエリアであることがハッキリとわかるのだった。
私は、こういう時にこそ、真の友人がわかると心底体験させていただいた。

老いた父が「納豆が手に入らない」と電話してきた。スーパーに開店と同時に行って少しでも父に納豆を食べさせたいと思ったが、開店前から行列で既に売り切れ。
売り場から父に
「おじいちゃん、スーパーに開店と同時に来たけれど、今日の分は納豆売り切れで送れない」と携帯電話で連絡したら、気の毒に思ったのか店の人が自分用に確保した納豆一パック(三個)を売り場に戻してくれた。携帯電話を切って手にしようと思ったら、横から来たおばさんが、サッと取ってかごに入れてしまった、「すみませんね」と笑いながら…。日本人の譲り合いの美徳なんて通用しない人種が確かに存在する。

日本の政府を、NHKを、東京電力を、そして名ばかりの友を、全てを鵜呑みにしない。
一所懸命対応しているのは事実として認めるが、不都合な真実を公表せずにパニックを回避しようとする姿勢には、とことん呆れた。

体内被曝、まず犠牲となるのは、幼いこどもたちである。
私は黙っていても、せいぜい後二十年程生きれば死ぬだろう。
大人には被害は少なくとも、小さなこどもたちへの影響は目に見えないだけに恐ろしい。

福島や茨城の酪農農家では牛の殺処分を決めたところもあると報道されたが、
牛が殺されなければならないのは、放射能で汚染されたものを食べたからではない。
私たちと同じように、ただ「息」をして吸い込んだだけである。
牛が呼吸しているだけで原乳に放射性物質が検出される、同じ大気の中に今私達は生きているのだ。

私は、カトリック信者であるが、この度ほど、カトリック教会では「地球や人類に甚大な被害をもたらすこともある」原子力発電について、どのように解釈をしてきたのか知りたいと思ったことはない。原発奴隷と海外で報道されてきた人々の人権を、自由意志による選択だと許して良いものなのか?彼らは、その危険な作業の説明すら満足に受けていないのである。科学の発達の名のもとに、そのパラドックスが人類や生命への危険を孕むものを良しとしていいものか?、今、その事に強く逡巡している。

追記:
ブログを書いた後、次々と実態が報告されている。
30キロ圏外でも甲状腺被曝の恐れ (原子力安全委が試算)
甲状腺は、水道水から検出された沃素によるものだろうが、外部からの放射線被曝もさることながら、「体内被曝」は、体から取り去ることができないし、目に見えるものでもないので、政府が「ただちに身体への影響はない」というコメントを繰り返しているのは、「徐々に身体が蝕まれていく」と言えない事実の存在を知りながら、なおも気休めの報告しているということだ、「ただちに避難せよ」と言うべきであろう。

茨城県は23日、東海村の一般家庭で県が同日採取した水道水から、乳児向けの暫定基準値を超える放射性ヨウ素が検出されたと発表
東京がまず発表されたのに、福島に近い茨城の検査が後から発表されている。水道水が汚染されれば、我が家のように井戸水に飲料水を頼っている家庭では、飲料水の確保が必要になるが、給水車は断水した上水道完備の所だけだ。行政の落とし穴で私たちのような家庭や農家が存在することを一体誰がキャッチしてくれるのだろう。

土壌から高濃度セシウム=福島原発40キロ地点−文科省
文部科学省は23日、東京電力福島第1原発から北西に約40キロの福島県飯舘村で採取した土壌から、1キログラム当たり16万3000ベクレルの放射性セシウム137が検出されたと発表した。セシウム137の半減期は約30年と長い。同じ地点から放射性ヨウ素131も同117万ベクレルが検出された。
海からも、大気からも、土壌からも、放射性物質の恐怖は目の前に来ているのだ。

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これら追記したことは、原発のニュースが入った時点で、素人の私でも危険を察知していたことだ。ましてや、政界・学者たちは解析結果を待たずとも充分予想できる範囲のことだろう。「今すぐに影響はない、直ちに身体に影響はない」発言は、「将来このような状態になる可能性もある、その際には東京電力と国は逃げません、国民の皆さんの健康には責任をもって参りますから、安心してください」と言うべき、しかし「何十年後の責任回避したいから言えない」心理が見え隠れする、重大で深刻な事態である。

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追記2:2011/03/24
世界の水道水の放射線基準値 WHO基準 1ベクレル、ドイツガス水道協会 0.5ベクレル、アメリカの法令基準 0.111ベクレル。日本は、3月17日に突如改訂して、300ベクレル 
http://ankei.jp/yuji/?n=1325 政府のやり方は汚い

追記3:2011/03/24
必読】鶴岡憲一「東電と経産省が増幅した原発災害」。元読売新聞編集委員、気骨の伝統の社会部記者であった氏の渾身の論考http://eritokyo.jp/independent/tsuruoka-fnp001.html
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2011年03月12日

M9.0(気象庁の発表変更)

まず、この地震で亡くなった犠牲者の皆様のご冥福を祈ります。
仙台白百合の修道院・学生・教職員の安否がまだ確認できません。

私は夜勤明けの朝帰りで、入眠剤を服用し熟睡していました。
夕刻、異常な揺れを体が察知し、おぼろげながら目を覚ましました。
ベッドから起き上がりましたが、目眩がします。
最初、体がフラフラとして、うまく歩けない感覚は、目眩から来ているのかと思いました。
歩けないほどの揺れが、地震によるものだと知覚するのに少し時間がかかりました。

今まで、経験したことのない大きな地震でした。
犬を外に繋ぎ、窓を全開しました。
廊下や陶房には、本や展示棚から落ちて割れた作品が、砕け散っていました。
歩くにも素足では危険と判断し、ウォーキングシューズを履いて廊下や陶房にの陶片を寄せながら道を開けました。

携帯電話は全く繋がりません。
ラジオを付け、インターネットを接続、テレビはないので、インターネットが情報源です。
幸い、私の住む町は停電をまぬがれたので、電気は確保できていました。
都市ガスをひいている家は、ガスの供給も止まりました。
水ですが、井戸水は電力で汲み上げているので出ました。
しかし、濁っており、苔のような物体が混じって飲用できません。

近所の大きなスーパーも閉鎖、コンビニも閉鎖。
ホームセンターは買出し客で超満員で、ペットボトルの大瓶は売り切れでした。
仕方なく、他のコンビニに入ると、ジュースのペットボトルが数本購入できました。

余震が絶え間なく続いています。
この地は、沼だった所で、地盤が悪く、揺れも激しいようです。

さきほど、防災担当者が被害状況の調査に来ました。
・作品の損壊。
・住宅の内壁の亀裂があちらこちらに入ったこと。
・井戸水が濁り飲用水が確保できないこと。
を報告しました。

ご心配いただいてメールや電話をいただいた皆様、ありがとうございます。
私も友人やお客様など、心配な皆様に電話やメールをいれましたが、
安否がわからない方もいらっしゃって、心配しています。

陶房がめちゃめちゃな状態で片付ける気が起こりません。
釉薬をいれているバケツから水が揺れでこぼれ床が滑ります。
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私の部屋。壁の亀裂です。
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粉引大壺・Futureなど大きな作品が割れました。
ダンボール二箱、割れた作品たちです。
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まだ余震が続いています。
各地の被害状況をインターネットで拝見しながら
M8.8という地震の巨大さがどれだけの被害をもたらしたか、驚きとともに
大きな悲しみを覚えております。
まだまだ油断できない状況です。
救助作業の進展と被災なさった皆様のために、祈ります。


facebookでは、70人以上の世界中の皆様からメッセージをいただいています。
http://www.facebook.com/photo.php?pid=189377&l=aedddba271&id=100001827578361
「世界は日本を祈りと共に見守っている。私たちにできることがあれば言ってください。」と。




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2011年02月11日

雪がすべてを真白に包む



雪がすべてを真白に包む
冬がそれだけ汚れやすくなる
汚れを包もうと また雪が降る
---私は 見えない時間に包まれている

混声合唱組曲「心の四季」より「風が」
作詩 吉野 弘  作曲 高田 三郎

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かつて所属していた合唱団で合唱祭に、この曲を歌った。
厳しい指導で有名だった指揮をされた先生も、すでに他界された。
(作曲者の高田三郎先生の指導も、相当厳しかったことは有名ですが…。)
歌は、歌詞と旋律が、体に涵養されて、
ふと、口に出てくる。

高田三郎氏のその旋律の美しさに、吉野弘氏の歌詞の深さに、
年を重ねて、ひとしお感じ入るものがある。
今日は雪。
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2011年02月07日

目に見えないもの

オブレート会の修道司祭であるレモン・ブルゴアン神父様(母校でフランス語を教えていただいた一人)に、受洗の報告に手紙を書いた時、
日本語で「ご苦労なことだと思います」と、返信をいただいたのだった。
あれから二十年以上経った。

洗礼の恵みをいただくと、通常は「おめでとうございます」と言葉を戴くことが多いのに、
ブルゴアン神父様の言葉は、十字架を背負って歩くことに対しての洞察からきたものだろうと、この言葉を、時折、思い出して反芻していた。

次から次へと順風満帆とは言えない風が吹いたし、嵐の中も歩き続けてきたように思う。
もちろん、平安のうちに、この世の天国を身をもって体験することもあった。

母の帰天が2005年だった。
母の誕生日。父と二人で誕生日のお祝いをし、「おいしい」とお寿司を食した後、台所まで歩いて行き、息をひきとった。持病の心臓病があったが、病院に入院することを嫌い、「ポックリ逝きたい」と、口癖のように言っていた母にとって、願い通りの召され方だったと想う。

母を送って、5年半。
一人暮らしになった父の近くへと、私は、札幌から現在の取手市に住居を移した。
父は、母との思い出の場所を一人訪ねては、その場その場をカメラで撮影することもなく、
心に刻んでいた。
3月と9月のお彼岸には、母の墓前で、持参したおにぎりを食し、母と対話していた。

母は、台所で倒れ、脈もなくなったが、救急車で搬送され、私がかつて勤めていた北里大学病院に運ばれたが、人工蘇生で、「長くても、あと8時間です。覚悟してください。」と医師に告げられた。

その母の誕生日。帰天した日。私は、札幌からフェリーに乗り、大洗港から東京に向かって車を走らせていたのだった。脳裏で「母の誕生日だなあ」と、考えながら。父母の所に向かうつもりではなく、所用で東京に向かっていたのだった。
携帯電話に、母が救急車で病院に運ばれたことの連絡が入り、急遽、病院に向けて走ったのだった。

今、思うと「神のはからいは限りなく生涯わたしは、そのなかに生きる」という詩篇が脳裏を過る。台所で、そのまま臨終となっていたら、私が病院に駆けつけても冷たくなっていただろう。しかし、救急隊と医師の処置で、心肺停止を免れ、後8時間の生命を持続できていたのである。

私は、病院に到着し、医師の話しを聞いた後、持っていたペットボトルのジュースで、私自身の手によって、母に臨終の洗礼を授けた。カトリック教会の要理の勉強に、受洗後もずっと通わせていただいていたおかげで、緊急時の洗礼は誰でも信者であれば授けることが可能である、ということを知らされていたのである。

葬儀の段取りになり、神父様に「緊急の臨終の洗礼」を認めていただけて、母はカトリック信者として、葬儀をあげていただいた。臨終の洗礼だから、母は、一度もご聖体をいただけなかった。

母の葬儀、洗礼台帳への記載、とお世話になったT神父様。
何度か、父と共に、その後も教会を訪れて、T神父様を信頼した父は、洗礼への希望を少しずつ固めていった。熱心に教会に通うわけではなかったが、毎朝仏壇・祭壇・神棚への祈りはかかしたことがなかった。「それで充分です」と仰ってくださったT神父様の言葉に、どれだけ父は、安堵し信頼したことだろう、と感謝せずにはいられない。

この5年半の間に、父は癌の宣告を受け、治療中。なおかつ昨年は、鼠径ヘルニアの手術も重なった。術後、退院した翌日だった、まさか!と思っていたのに、父が私の丸善芸術祭に足を運んでくれたのである。「無理しないで」と言ったのに。私の個展があると、それを楽しみに足を運んでくれ、「がんばれよ」と励ましてくれる父だった。

父が信頼していたT神父様のお心遣いの中、2月6日(日)に、父は洗礼・堅信・初聖体の恵みをいただきました。

私が、以前父に譲ったロザリオを手に、代父に支えられて、一人だけの洗礼式をあげていただいた。洗礼式を終え、父の写真を見ながら、今日一日、涙が溢れて止まりませんでした。
今日は、父の86歳の誕生日でした。大きな恵みをいただいた父の誕生日でした。

あのアシジのフランシスコが愛した「単純さ」そのものを持っている父です。
難しい理屈も、要理も、わかりません。
でも、私は、この父が私を愛し育んでくれたからこそ、神の愛がわかるようになりました。
アガーペ(無償の愛)。
愛を教えてくれたのは、この父です。
その父が、洗礼の恵みをいただけたことは、天の父のはからいではないでしょうか?


思えば、私の洗礼の時の、ブルゴアン神父様の言葉。
「ご苦労なことだと思います。」
その苦労を、もうすでに、共に歩んできてくれた父だったのです。

父は、洗礼式の後、私に「ありがとう」と言いました。
私は父に、「私に神様の愛を教えてくれたのは、おとうさんなのだから、私こそ、ありがとう」と言いました。


母の帰天から、父の洗礼の恵みまで、5年半。
準備を大切にするカトリック。5年半は短いのか長いのか。
いいえ、これこそ、神のはからい。長さでも短さでもなく、神の恵みの時だったのです。
目には見えないものの「すべてに時がある」ことを、ゆっくり待ち続けての父の受洗でした。

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Today, my father was baptized. Baptism, Confirmation name is Joseph. I learned about love from my father. So that my father received the blessings of baptism, I was touched.(2/6 on my facebook)



posted by 丸山 陶李 at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 夢は枯野を