2008年01月01日

井戸茶碗発表の年

新年あけましておめでとうございます

2007年から2008年と新しい年を迎えました。
皆様に恵み豊かな一年となりますよう、
また希望に満ちた日々となりますよう、
年頭にあたり心よりお祈りしております。


降誕節でもあり、神の母聖母マリア様の祝日でもある元旦にあたり、
今年は私の井戸茶碗を発表する年にしたいと私自身、大きな希望を抱いております。

大井戸茶碗にはキリシタン大名の高山右近のお名前を頂いて
「右近」と銘名することを、心に決めております。

もう一つ井戸茶碗が発表できたら、私のクリスチャンネームでもあるガラシャ(細川ガラシャ)から、お名前を頂いて「ガラシャ」(ラテン語で恩寵)と銘名できる井戸茶碗も発表したいのですが、一つだけでも・・・。と願うことに致しましょう。

昨年一年を振り返り、目にし、耳にした事象から、深く思いを致すことが多くございました。
はらわた動かされる=compassion
こんな思いを幾度も体験させられました。


新年の冒頭には、ふさわしくないことかもしれませんが、私は、多くの涙を見、人々や自然の叫びを聞いたように思えました。

自分をも含めて、おそらく人間は何処に向かって生きているのか?先人達も熟慮し、模索してきた問題を、何度も考えました。多くの現存する人の営みの中から、時には大自然の事象から、
まるで花が咲き花が散るように、一瞬の煌きの如く、回答を垣間見たように感じることがありました。

しみじみ思う事は、確かに何事も時間が必要だという事でした。
物事の見方、感じ方、味わい方、五感を駆使して追求しても、真髄が理解できるようになるには、時間が必要だと言えるのかもしれません。

若い頃には見えなかった事、感じ得なかった事など年を重ねて見えてくるようになる。これは私達が生涯未熟でありながらも、時間のなかで成熟していくような感覚とでも申しましょうか、言い換えると深く豊かになっていくには時間が必要だと思えるのです。

時に天才と言われる人々には、こういった時間の積み重ねを跳躍した識別能力が備わっているのかもしれません。

私は凡人ですから、時間が必要なのだと実感します。
ちっぽけな才能も恵みでありますから、その恵みを生かしながら、時間をかけてコツコツと地道に自分を修練していくしかないものだな、と実感しているところでもあります。

さて、昨年、私がはらわた動かされるような思いで受け止めてきた事象の数々も、私という一人の人間の血のなかに取り込まれたように感じています。私という一人の人間が成し得る事は限られていますが、精一杯、陶という表現の中で濾過して生かしていければと考えています。

人の一生の長短、人一人の生命は、一体何の意味があるのだろう?一人の存在は一体何のためなんだろう?と大自然の中で考え込んでしまうことがありますが、与えられた時と所で希望を失わずに夢をもち、地道に歩んで行きたいと願っています。

大きなことや有名になることは、おそらく自分の道ではない、ということが、この年になりわかってきました。私の感性で、私の作品に真摯に向かい合い、丸山陶李といういう命が、いつか千の風になって吹き渡る日が来る時にも、作品を通して、見知らぬ人々の心に、ささいな感動や希望、なにかしらの心揺さぶられる思いを感じていただけたら、それで本望だと思うのです。

年頭にあたり、肩肘はらず、ありのままで・・・、でも残された時間を思い、身を引き締めて制作して生きたい。そう思っています。

涙のうちに種まく人は、喜びのうちに刈り取る(聖句)


本年も、どうぞ宜しくお願いいたします。

posted by 丸山 陶李 at 02:30 | TrackBack(0) | 井戸茶碗
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