2007年09月28日

嘘をつくから、ニセモノのラベルを貼られる。
ありのままなら、良いモノのままでいられるのに。

嘘を見破る事ができないから、
ホンモノと信じる人たちの手によって、
ニセモノがホンモノとして伝わってしまう。

ありのままなら、良いモノなのに。

嘘を承知で、売るのは詐欺だけれど、
騙される人が多いから、そんな商売も成り立っているのだろう。

売る人も知らずに、ホンモノと信じている場合は、
ニセモノがホンモノとして世にでてしまう。

ある古美術商に
「これは、李朝ではありませんよ」
と私が言った時、主人の顔には、明らかに狼狽する表情が見て取れた。

しかし、
「いいえ、李朝ですよ」
と、その方は反論できなかった。

知ってか知らずか、李朝でないものを李朝として売るのは信用を失くすのは当然だが、その人の鑑識眼を疑う。
当然、他の品物にも疑問符がつく事になる。
一点の嘘が、すべてに及ぶ。
眼は、この点において、命取りともなるギリギリの世界。

何を信じるのか?

結局は、自分の眼しかない。

自分の眼を信じるに足りるものにするには、
ホンモノを見続け、時には騙されながらも、
眼を養っていくしかない。

ホンモノを知れば、ニセモノは安易に見分けられるのだから。

世の中には、必要な嘘もあるけれど、
嘘を真実としようとする行為には、吐き気がする。

ありのままなら、良いモノなのにね。

私が、古物の箱書きや、能書き、作者名や肩書き、を信じない理由。

良いモノは良い。
ありのままで良い。



posted by 丸山 陶李 at 11:40 | TrackBack(0) | 高麗・李朝
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