2007年09月07日

傷が似合うよ

陶磁器の蒐集家、特に骨董では「傷」にこだわる人を多く見かける。
なかでも、磁器を蒐集しているコレクターは「ニュウ」「ホツ」「ワレ」「カケ」「ムシクイ」など、ルーペを持って神経質にモノをチェックする方が多い。

古伊万里や中国陶磁などは、ある意味「パーフェクト」が求められると言っても良いだろう。

私は、シンメトリーでビッチリ細密画のように絵付けされた陶磁器は、今は全く興味がないので、陶磁器を見る場合、欠点とされる「傷」などは気にならない。
むしろ、陶片のように割れて土味が見えるものは大歓迎です(笑)。

人間の美意識を語る場合、日本人の美意識には一種独特な血が流れているように思う。

それを茶人たちは「不完全の美」と言って喜んだのだろうが、世界中探しても、割れた茶碗を金継ぎして「良い景色ができた」と喜ぶ民族は日本人だけである。

桃山時代の古田織部などは、わざわざ茶碗を割って金継ぎし、景色を作ったのだから、思い切った人だと感心する。

大井戸茶碗の「須弥(しゅみ)」は、「十文字井戸」とも呼ばれているが、わざわざ扁平に開いた茶碗を十文字に割って上部の幅を縮め、碗形に整えたものであるが、古田織部の美意識に見える大胆さには驚かされる。

最近、特に思うのですが、
「李朝の陶磁器」(もちろん磁器も含めて)は、「傷」が似合う。

茶碗にしろ、花入れにしろ、皿にしろ・・・伝世品が少ない李朝の陶磁器は傷モノが多い。もちろん完品も目にすることができるが、李朝陶磁器ほど、傷が気にならない陶磁器は無いと思う。

傷をも含めて、鑑賞に堪え、なおかつ自然体で語り合うことのできる陶磁器である。

日本民藝館の白磁(軟質白磁)大壺の前で胡坐をかいて、数時間座ったまま対峙した時、
壺のゆがみが、人の手で使われてついた無数の傷が、年月を経て染み付いた貫入の染みまでもが、飽きることなく私に語ってくれた。
その存在は、静謐で寡黙でありながら、傷をも受容し時代の空気を吸い込んで、沈黙する素晴らしさを教えてくれた。

身の回りの李朝陶磁器を手に取り、ある時は薄茶を点てて使いながら、
「傷が似合うよ・・・」
と、心の中で話しかけている。

私たち人間は皆、不完全なものだからだろうか。

DSCF1682.JPG

※台風ニュースを英語で聴いてみる。
posted by 丸山 陶李 at 19:39 | TrackBack(0) | 高麗・李朝
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