2010年12月26日

涙の降誕節

クリスマス・イヴは娘の誕生日でもあった。
祝ってくれる人、お祝いの言葉を掛けてくれる人、共に喜んでくれる人。
人の中で生きて、生かされている私たち。

貧しい馬小屋で、権威をかざして王として君臨し支配するためではなく、貧しい人々の救いのために生まれたイエス様。人間としてお生まれになった神の独り子イエス様の誕生、十字架と復活、この三つは切り離しては考えられない。

誕生があり、十字架があり、復活があるのだ。
幼いイエス様が今日も、そして毎瞬、私の中にも生まれ、育てていけますように、と十字架を見つめつつ日々を送らせていただいている。

世界中の人々が、宗教を超えて救い主イエス・キリストの誕生を祝う。
この日本でも。

しかし、どうだろう。
「与えるよりも受ける方が幸いである」
プレゼントを差し上げるよりも、どんなに苦しい思いをしていても、素直にプレゼントを「ありがとう」と受け取れる人こそ幸いなのである。
そして、イエス様は、与える側ではなく受ける側の人の中にこそいらっしゃるのだ。

マザー・テレサはノーベル平和賞を受賞した時に、こう言っている。
「私は貧しい人々の代わりに、この賞をいただいているのです。」と。

娘の誕生日とクリスマスのお祝いに、以前、約束していたピザを注文した。
学生時代に通った代々木の予備校の近くにあった小さなピザ屋さん、ここのピザは格別のおいしさで、昔は、二切れ180円のミックス・ピザと、ミルクを、よく食べにいったものだった。
そのピザ屋さんが、現在は吉祥寺に移転し、全国からの注文に応じてくれていたからだ。
そのおいしさを娘にも味わってもらいたい、小さな思いからだ。
こどもたちの心配をしない親はいないだろうが、私が世を去った後の、こどもたちの高齢化した頃を思うと心配で眠れないこともある。先のことを考えても、と笑う人がいるかもしれないが、今の社会の制度が崩れ初めていることが、生きる未来に希望を抱くことさえ困難な状況を示している。

人に与えられるものがあるのなら、私は笑顔を与えたい。
そして、苦しむ人と出会うのなら、手をにぎり、抱きしめてあげたい。
そうありたい。と、クリスマスを迎えるにあたって毎日祈ってきた。
現実に多くの人と接すると、そう理想通りに接することができないのは、自愛心のなせる技、そして祈りが足りないからだろうと深く自省したクリスマスでもあった。
物品・金品の寄付や協力も、教会や、ボランティア活動でも限界がある。

クリスマスが終わったこの降誕節(降誕節は「主の公現」まで続くが)にブログに向かったのは、今日、「クリスマスは終わった。正月準備だ。」という日本社会の中で、谷口神父様のブログを朝一番に読んだせいもある。

「日本の貧困について」

正直に申し上げると、私はカトリック教会の中にあるサロン的雰囲気が好きになれない。
外国人と共に与るミサに行くことが多いのは、その違和感がないからでもある。
日本でミサに与る外国人は、フィリッピンやブラジルからの労働者が多い。
言葉を超えて、一人一人の貧しさ・小ささを自分をも含めて感じられるし、また人々が国籍や肌の色、言語、環境にかかわらずキリストの体の一部であり、連帯しているものであることを体で感じられるからだ。私自身も小さな人々の一人でしかない。

その教会内の人々のサロン的雰囲気の中での違和感を、「日本の貧困について」で谷口神父様が見事に洞察してくださっている。共感を覚えた。

同時に、朝日新聞のインターネット版で、今日から「孤族の国の私たち」という連載がはじまった。

「日本の貧困について」で洞察されている内容と、今の日本の現状とこれからの展望をあわせて記事にしている「孤族の国の私たち」は、ぼんやりとした不安感を抱えている今の日本社会を浮き彫りにしている。

私の周りには、クリスマスおめでとうの言葉もプレゼントもなく、将来への不安をどうすることもできない人、また孤独感から精神を病んで行く人、誰からも声をかけられることもなく、ひっそりと一人で食うや食わずの生活をしている人など、現実問題として存在している。
その人たちのことを考えると、ごはんが喉を通らないこともある。
そして通勤電車の中では、頻繁に人身事故による電車遅延を目の当たりにしてきた。
ここ数年、自殺者がこれだけ増加している日本、若者も高齢者も、そして中年世代も、未来に希望をいだくことなどできない状況をしいられている人が如何に多いことか。人事ではない。

クリスマスだからこそ、考えてしまう。そして、胸を圧迫されるような哀しみを抱かされる。

自分のことはさておいても、胸痛むことの何と多いことか。
人を使い捨て、若者に働く気力を失わせる、勝ち組・負け組と短絡的に人を分別してしまう風潮。それらをおかしいと思わない人権感覚。

55歳、軽自動車での最期 連載「孤族の国」朝日新聞ウェブ版のこの記事を読み終える頃には、毎日のように起きている電車の人身事故で自ら生命を絶った人々の涙の叫びと苦しみ痛みが、十字架上のイエスと重なり、涙が止まらなくなっていた。

家族に頼れる時代の終わり 「孤族の国」
 高齢社会化が一段と進む2020年。単身化がより深く広がる2030年。日本社会がかつて経験したことのない20年が目の前に続いている。残された時間は、決して長くはない。(真鍋弘樹)

昨年のクリスマス・イヴ。六本木のフランシスカン・チャペルセンターから四谷のイグナチオ教会へ移動しようとした時、地下鉄が人身事故で止まっていた。仕方なくタクシーに乗るという贅沢をしてしまったが、そのタクシーの運転手さんの話し「親友が飛び込み自殺したんだ、経済的な理由だと思います。」と言う。クリスマスを祝う時に、希望もなく絶望と孤独の中で死を選択した人々がもいることを忘れてはならない、と思った。

「また人身事故?」という前に、その人々の苦しみと痛みに、祈りをもって共感し、今の日本社会において、抹殺されている人々の心の叫びに耳を傾け、他人ごとではない現実を直視していきたいと思っている。

posted by 丸山 陶李 at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 夢は枯野を
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