2010年11月16日

枇杷色と言うけれど

井戸茶碗のテストピースを無造作に陶房に放置してある。
井戸茶碗というと「枇杷色」という先入観を、いつしか多くの方が持つようになってしまったが、果たして窯出し直後から、あの枇杷色を呈していたのだろうか?

陶房のテストピースには、古色をつけたり、日本酒に浸したり、様々なテストが窯出し後も繰り返されている。

窯から出した時には、淡いベージュ色やマロン色だったテストピース。
古色付けされ、お酒を含ませて置いておいたりと、無造作な私の管理。
新しい井戸茶碗に向けて轆轤に向かい、釉薬のテストを繰り返したり、時には胎土の調合を変えてみたりと、未来への時間でテストピースの存在も忘れたかのような日々になる。
もちろん、テストピースから気づきが与えられ、試行錯誤しているのだが。
ふっと時の流れの中で、陶房の窓辺に重ねられたテストピースに目をやり、それらを手にしてみると、大変身をとげていることがあり、驚かされる。

今日、紹介するのは、そんなテストピースの一つ。
貫入が荒めで、梅花皮が飛び過ぎていたので、古色をつけ、日本酒に浸し、その後、放置しておいたものである。

テストピースの中で、ひときわ鮮やかな「枇杷色」を呈し、しっとりとした艶も出て、土色は黒く変色し、窯出し直後には考えてもいなかった変化を遂げている。

ああ、こうして伝来の井戸茶碗は、育ち、育てられして、いわゆる「枇杷色」の井戸茶碗になってきたのだな、と合点が行く。

今と昔の原材料の違いもあるが大名物の井戸茶碗は、その違いのみならず、何百年という時空を経て育ち、伝世されてきた。

その存在感を今新たに窯出しする茶碗に求めようとするのだから、原材料や不純物の研究、技術でも適わないものがある。作り手の精神性と言われれば、それもそうだろう。しかし、やはり育った茶碗の何年後、何十年後、いや何百年後の姿を想像しながら、窯出しされた茶碗を見、未来の姿を洞察する眼力は使い手の特権だろう。もちろん、作り手にも、そういう眼力は必要であるが、自作に関しては、育てて見てみるという体験がものを言う。

人間が似ていてもクローンではないように。茶碗にも各々一つの命がある。
茶碗の生命を育てるのは、やはり使い手なのだ。
私たち陶工は、その形や景色を炎や土や窯との共同制作で生み出し、生命を吹きこまれ、育まれ、愛でられる茶碗を幾百も幾千も作り続けながら、生涯を捧げる茶碗の道具にすぎない。
つくづく、シミジミそう思った一日だった。

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posted by 丸山 陶李 at 19:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 井戸茶碗
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