2010年03月09日

縄文土笛と粉青沙器

桃山時代の「志野」の陶片を可児市の大萱古窯跡で荒川豊蔵が発見し、志野の再現に取り組むというテレビの番組を見た時であった。
私は「陶芸家」になりたい、という思いを抱いた。中学生の時だった。

小学校5年の時、東京の都心から「縄文土器」が近くの畑から出てくる町田市に引越しをし、散歩中、畑の中からでてきた陶片を、父が「縄文土器だよ」と教えてくれた時、なんとも言えない不思議な「太古へのあこがれ」と、「土へのあこがれ」を抱いたことが始まりだった

田んぼも畑も区別ができない都会少女が「土」と、陶磁器や骨董に開眼された契機であり、私と陶芸との出会いでもあった。その後、どこにドライブや旅行に出掛けても、私は「土鈴」をおみやげに購入するようになった。

関西の伊丹市に剣道家の祖父「越川秀之介」(剣道家として紫綬褒章受賞)と、祖母が住んでいた。伊丹に遊びに行った時も、「京都に行きたい」と祖母にねだり、京都で購入したのは「土人形」だった。祖母は、そんな私を祖父に「清水寺連れて行ったら可愛いお人形を欲しがるのかと思ったら、この子は土人形が欲しい、と言ってなぁ」と、ぼやいて話していた(笑)。

縄文土器や、土人形土鈴など、「土」に非常に感度が高かった少女が、一人テレビを見ていたら、先の「荒川豊蔵・桃山志野再現にかける」が放送されて、瞬間「陶芸家になる!」と決心していたのである。もちろん、誰にも言わず。(たとえ両親に言っても許してもらえるはずがない事もわかっている少女だった。)

「縄文土器」との出会いも「必然」だったと、今日振り返っていた。今週、「縄文土笛」を制作しているが、あの「縄目紋様」は、私が専門としてきた「李朝の粉青沙器」の一技法である「三島(印花文)」に通じている。

韓国に陶芸研修に行った時も、新羅土器を博物館で見学し、現在韓国で新羅土器の名匠に指定されている柳孝雄先生の陶房でも、先生の使用している印花を新羅土器の皿に刻ませていただいた。

新羅土器の印花や、縄目…これは縄文土器が韓国でも発掘されているので、同じ技法を使ってきたことに不思議はない。

新羅土器の印花や縄目が、李朝の粉青沙器の三島につながっていることも、訪韓した時に直感したことだった。

今日、制作した縄文土笛の仕上げに「磨き」を入れた。磨きを入れながら、縄文土器の縄目、新羅土器の縄目、粉青沙器の縄目、印花が、つながるべくしてつながっていた事を思い知った。

人々のダイナミックな交流と移動。今のようにパスポートも国籍もない人々は自由に大陸を往来したことだろう。

磨きをかける前の縄文土笛には、印花文や縄目文が、装飾性だけではなく「土の引き締め」に一役買っていることを縄文人も知っていた、と考えたが、これは新羅土器、粉青沙器の三島にも通じる。

今日、磨きをかけた「縄文土笛」から写真二点を紹介しよう。

縄文土笛「鳥の笛」
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縄文土器のように焼成したら、白さはなくなり、赤土になってしまうが、この時点で見れば、白土を化粧土として施した「粉青沙器の三島」そのものである。「磨き」をかける前に「白土」を化粧しておき、表面が乾燥したら、磨けば、「三島」そのものだ。

磨きをかけた縄文土笛。
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縄文土器や土偶。これらの土器には、良く磨かれてツルツルした肌触りのものが多数見かけられる。
磨くことによって、また内側の土と土の輪積み接着部分を丁寧にすることで、低温度焼成で水漏れする土の粗さを補うことを縄文人は工夫していた。そして磨いた部分と磨かれない凹部分の対比も美的感覚として美しく、面白く感じていたに違いない。

粉青沙器の三島を得意として制作してきた私だが、縄文との繋がりを見つけた。これは、人から学んだことではなく、作り手として自分自身で縄文土器や土偶を見、粉青沙器や新羅土器を勉強し、実際に制作してみて、辿りついた結論である。
posted by 丸山 陶李 at 15:56| 縄文