2008年05月13日

深淵より

信仰の深い淵より綴る。

キリスト者にとって、「復活」は信仰の中心であり、すべての希望でもある。

曲がりなりにも、信仰と呼べるものを身体の中に、精神の中に、生きる軸として生きてきた。

しかし・・・。

今、私は信仰の深淵を味わっている。逡巡している。
愛を疑うことはしない。
愛を信じたことを疑いはしない。
愛された記憶を亡くすこともしない。
愛したことを悔やみもしない。

逡巡の中で脳裏に浮かんできた言葉を携帯にメモしておいた。

「人間、しあわせに生きるために生まれてくるとは限らない」

「できないこと、しないことのほうが大切なのかもしれない。できる、するが邪悪な人間を作る。」


母の死後、私は信仰の真髄でもある「復活」が信じられなくなっている。重い気持ちで胸がふさがれる。

死んだら、何もない。
生きているうちがすべて。

そんな思いが、何度も何度も押し寄せてきて、今は、そうだと考えはじめている。

「千の風になって」という歌に励まされもしたが、それも空想。そうであったら、という生きているものの慰め。死んだら何もない。。。

生きているうちがすべてだとしたら、人間しあわせに生きるために生まれてくるとは限らない。そう思う。

「もしあの世がなかったら、私はいっぱい食わされたことになる。でも愛したことを後悔はしない。」−−−ビアンネ司祭の言葉だったと記憶している。

信仰の深い悩みは、私を瞬時に深淵な世界へと引きずりこむ。

母の死を思うたびに、残った家族を思うたびに、命と一生は何のために与えられてるのか?と、人間の悲哀を味わう。苦しみから解放されるのは死を迎える時しかないのか?と重い気持ちになる。

母の遺影を見るたびに、なんでこんな優しい表情でいられたのか、と不思議に思う。

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posted by 丸山 陶李 at 00:37 | TrackBack(0) | 夢は枯野を
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