2006年07月23日

自由と責任

2000年から、私のホームページで記録を綴ってきているが、
ここ数日来、以前にも書いた「自由と責任」という言葉が私自身の中に往来している。

発端は・・・。
北陸・信越、近畿、中国、九州地方を襲っている「集中豪雨」のニュース。
長野で70歳になる女性が豪雨の犠牲となった。
70歳の女性の命が泥水に飲み込まれてしまったのだ。
もちろん、他にも多くの犠牲者が続いている。

自然災害による犠牲者については、どうしようもない部分があって、
どうして、命の最後を、このような災害で終わらせなくてはならないのか?
神の御旨がどこかに、あるとするなら「一体何のために?」、と考えてしまう。

数年来の異常気象・大洪水・集中豪雨。
この原因は、「地球温暖化」にあると気象庁も発表している。

「地球温暖化」の原因は?
それは、私たちの生活そのものである。

長野で70歳の人生の終幕を土砂災害の中で閉じた女性の命。
私たちの日々の自由な選択の生活の結果、地球温暖化が進み、
各地での集中豪雨となっていることと、合わせ考えたら、
犠牲者の命への責任は、私たちにもある、と言っても過言ではないだろう。

神の御旨があるとするならば、
私たちの現在の生活への警鐘だろうか?
ひとりひとり人々の運・不運ではすまされないことではないだろうか?

自然災害にお見舞いの言葉を言う前に、
私たちは、自分の生活を見直さなくてはならないのではないだろうか?


恵みの雨となることもあり、
人の命を奪うこともできる雨。

この連日の雨の恵みで、庭に遅まきながら植えた枝豆の芽が伸びている。
方や、ニュースで連日の災害の報道である。

複雑な心境・・・というより、
私たちは、「自由には責任が伴う」ということを、改めて認識しなくてはならないのではないか?と自分に問いかけている。

政府も、次期内閣の動向に忙しないが、
数年来のこういう自然からの警鐘を、
国家のリーダーたちが、私たち国民の先頭に立って、
どう受け止め政治姿勢に反映してくれるのか?
犠牲者がでる度に、思いを強くする。

長野の70歳の女性の命を冒頭で取り上げたのは、
ただ、自分の母を思ったからだと思う。

人生の終焉をどう迎えるのか?ということは、
死に様ということだ。
自分の母がしあわせな死だったと思えても、
こういうニュースを見るにつけ、心がしめつけられる。

ひとりの人生の結果として「死」がそれを締めくくるものだとしたら、
あまりにも、不公平じゃないか?と文句も言いたくなる。

私たちの自由と責任への警鐘だとしたら、
まず私から生活を変えていかなくては、とも思う。
政治に期待するよりも、私たちの自覚こそ必須と思うが、どうだろうか?

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posted by 丸山 陶李 at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 夢は枯野を
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