2013年08月19日

8月15日


8月15日

目覚めと共に、母の命日であることに祭壇に向かう。
線香を立て、手を合わせる。
夕方、聖母の被昇天のミサにあずかろうと心の準備をしている。

日本にとって今日は終戦(敗戦)記念日。
兄弟を戦争で失った父、父の兄は戦地で恐ろしい体験をした。
連れ合いの父も、戦地で恐ろしい体験をした。
父の世代が召される時、戦争の実体験を語れる者は存在しなくなる。

小学生のころ、私は父に度々尋ねた。
「なんで戦争をしたの?」
「また戦争は起きるの?」
「戦争のない国はないの?」

こどもの私は、ただ人が人を殺したり、
切腹とか銃殺とか・・・血を見るのが恐ろしくてしかたがなかった。
「見たくない」「恐ろしい」というこども心が、父への質問となったのだろう。

いかなる理由があっても、戦争は人殺しなのだからしてはいけない。
このシンプルな理が通用しない。

歴史書をすこしずつだが、私の中でいまだくすぶっている「なぜ?」を紐解くために読み進めている。

そこに見えてくるものは、
宗教や、国や、利権や、テリトリーや、思想や主義主張の違いが、戦争となっていく発端にあること。違っていることに対して、自分が正しい(利したい)という我欲を、「国のため、国民のため、ドグマのため、信仰のため、思想のため等々」にすりかえて人殺しをしてきた人間の歴史。

何かを守るために、名もなき小さな人々の命を生贄のごとく要求している。
人の命を要求する、ということが何を示しているのか。

それは何かを守るという名目で、何かではない命は抹殺されてもかまわないという湧き出る欲ではないのか。

あなたを守るために、私は命を捧げるよ。これが8月14日にアウシュビッツ収容所で亡くなったコルベ神父様の生き方だった。身代わりの愛。

まったく逆な考えをしている政治家が恐れもなく発言する内容に背筋が凍る。
平和ボケしているのは、私たちではなく「あなた」ですよ。と申し上げたい。
国を守るために自衛隊を国防軍とするなら、まずあなたの息子を国防軍にどうぞ、と申し上げたい。あなたの息子も自衛隊の息子も同じ「命」であることを認識できないほどに平和ボケしているのだろうか。

我が子が人殺しに加担しなければならないような時代がくることを予感したなら私は徹底的に戦う。

父がかつて召集令状を受けて出征する際に、戦争中で満足に食事もとれない中、祖母は父を連れて祖母の故郷に出向き、父が出征前に腹一杯食べられるようにと田舎の農家から調達したもち米で「おはぎ」を作ってくれたそうだ。

我が子を戦地に送り出さねばならなかった祖母の心やいかに。。。と思う。

父はカトリックの洗礼のめぐみをいただいた。
しかし、今日は靖国神社へ、単純に戦争で犠牲になった人々を慰霊するために参拝にでかけている。猛暑の中。

戦争にいかざるを得ない時代に生きた人も、
戦争を知らない人も、誰一人として命を国に捧げる戦争など望んでいなかったことは真実だろう。人を戦争に向かわしめたものこそ、私たちがこの日、胸に刻みつけなければならないのだ、と思う。

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憲法改正・護憲の問題も、靖国の問題も、自分のものとして判断し自分の生き方として賛成するか反対するか主体性が大切だ。誰がこういっていたから賛成する(反対する)といったものではなく、あくまでも判断は自分で学びながらするものでありたい。なぜならそれが自分の歴史になるのだから。


posted by 丸山 陶李 at 20:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 夢は枯野を