2010年01月23日

モーリス・ズンデル神父の言葉

真の芸術家や科学者たちに、彼らの探求の対象を何か宗教的な雰囲気で包ませるのは、多くの場合、漠然としていても、神を身近に感じるこの「直感」ではないでしょうか。自分たちが神の打ち明けにあずかっているかのように、彼らの使命が、宇宙のすべてを、その印を帯びている。

神がはっきりと現れるのは、つねに人間の内面化と解放によってです。いのちとは関係なしに観念的に悟られた神ではない真実の神は、このようにしてしか知られることはありません。それは私たちを回心させ、変容させ、私たち自身の自己中心主義を乗り越えさせ私たちの存在の根本にまで導く

最悪の無神論は、神を生きずに神を語り、愛することなく愛を論じる、一体その愛の内容は何なのでしょうか。人間は自分の不安、自己中心主義、個人または集団的な生物学的動きのうちに自分をも他人をも滅ぼしてしまう誤りのなかで孤独にとどまるでしょう。−モーリス・ズンデル−神は永遠の今。

昨年のクリスマス待降節から、モーリス・ズンデル神父の著書で黙想を続けてきた。つまるところ、アシジの聖フランシスコの貧しさの中に、ズンデル神父は心粋し、フランシスコに倣い、清貧の生活を思ったという。

神父様の霊性は、徹底的な優しさと、かくれんばかりの地味な服装にもみられる。4冊の著書が本棚に置いてあるが、十年以上に購入した本が、読まずに積読されておたので、新たに購入しなくてもことたりる、ということで読み始めましたら、もう、ズンデルファンになってしまって、でもお陰様で、たくさんの良い黙想をいただきました、

素晴らしい神父様の著作。深く観想へと導いてくれています。

posted by 丸山 陶李 at 01:49| 夢は枯野を

2010年01月12日

宇宙飛行士の言葉

「エピファネイア」主の公現(救い主が神から遣わされて人類のうちに顕現し、イエスのうちに現された神の栄光を讃える日)に月の裏側を見た宇宙飛行士が「人類が月に足跡を残したことより、キリストが2千年前この地球を歩かれたという事実が凄いことだ。」と言っていたのを思い出しハッとしている。

キリスト教、イスラム教、仏教、神道、みな違う名を神にあてている。しかし、名前がどうあれ、それが指し示しているある同一の至高の存在がある。それが存在するということだ。宗教はすべて人間が作った。だから神に違う名前がつけられた。名前は違うが同じ対象なのだ。シーン・サーナン

宇宙で私が感じたのは、宗教の細かな教義なぞどうでもいいじゃないかということだった。目の前に宇宙は美しくある。それだけで十分じゃないか。結局、既成宗教は、同じ宗教心の別の表現だと思う。根にあるものは同じで、表現形態が違うだけだ。エド・ギブスン

この地球を失って宇宙空間に放り出されてしまったら人間にとって宇宙とはこの気味の悪さしか残らない存在。そう考えるとこの地球という星が人間にとっていかに大切でユニークな存在かということがよくわかる。地球という住処を宇宙の中で人間がもっていることの幸せを感じた。ジム・ギブスン

かくも無力で弱い存在が宇宙の中で生きているということ。これこそ神の恩寵だということが何の説明もなしに実感できる。宇宙飛行まで神の存在そのものを疑うこともあった。しかし宇宙から地球を見ることを通して得られた洞察の前にはあらゆる懐疑が吹き飛んだ。ジム・アーウィン

宇宙からは、マイナーなものは見えず、本質が見える。表面的な違いはみんな消し飛んで同じものに見える。相違は現象で、本質は同一性である。人間も、種族、民族は違うかもしれないが、同じホモ・サピエンスに属するものではないかと感じる。ドン・アイズリ

対立、抗争というのは、すべて何らかの違いを前提としたもので、同じものの間には争いがないはずだ。同じだという認識が足りないから争いが起こる。ドン・アイズマン

人間という種に対する義務感を強く感じた。この体験の価値は人類に対して持ち帰って伝えるべきだ。人間はガイアの中で生きている生物であることを自覚して生きていかなければならない。ガイアにとって人間はなにものでもないが人間はガイアなしでは生きられない。ラッセル・シュワイカート

「事実だけでは伝えきれないような、何か根源的なものを、宇宙では感じていました。本質は他のところにあるんじゃないかと。科学者の目でそれを書くには、サイエンス・フィクションの形を取るしかなかった」『モマの火星探検記』著者・毛利衛さんhttp://bit.ly/5luIeP

「モマ。受け入れろ。考えることなく、ただ受け入れろ。考えてはいけない。生まれてきたばかりの赤ん坊のように、ただ、目の前の世界を驚きをもって受け入れろ。考えるのはまだ早い」科学者として教育を受けた私が、亡霊の存在を受け入れることなどできるわけがなかった。毛利衛「モマの火星探検記」

戦争をするエネルギーがあるのなら、それを人類が自ら引き起こした地球の破壊という罪を償うことに費やすべきではないのか。人々はそんな風に思うようになった。地球は文字通り自分たちの母なのだということに、今さらながらに気づいたのだった。 毛利衛「モマの火星探検記」

私はこの時のことをはっきりと覚えている。…その地球が汚されていくことへの悲しみが、強く心を絞めつけたことも・・・・。宇宙からは、地球がまるで皮膚病に冒されているかのように、人間が自然を破壊しているさまも、とてもよく見えたのだから。毛利衛「モマの火星探検記」

この世の中でもっとも大きなもの。想像するのが難しいほどに巨大なもの。それが、わたしが宇宙から見た地球なのだ。…その時、「自分の姿を外から見るために地球は人類を生んだのかもしれない」という考えが、15歳のわたしの心にひらめいたのさ。毛利衛「モマの火星探検記」

確かなのは、わたしたちは太陽系という壮大な時空間で育まれた生命体であり、わたしたちは太陽系人だということなのだ。 毛利衛「モマの火星探検記」

宇宙から見たあの地球の姿が浮かんできた。それは5000万種以上もの生命体が果てしなくつながった、かけがえのないもう一つの宇宙だ。その生命という宇宙を形作るもとはDNAたちだ。その無限個のDNAたちが地球生命体として一個の巨大な意志を持ったとき…毛利衛「モマの火星探検記」






posted by 丸山 陶李 at 13:06| 夢は枯野を

2010年01月05日

国宝 土偶展

「土偶展」から無事帰還。縄文土器を見る時には「使われたモノ」という視点があるので、デザインや制作エネルギーに圧倒されたが序の口だった。縄文人入り口として。土偶は「これ何?何に使うの?芸術?呪詛?何?何?」と「?」の連続なので一々説明を読みながら鑑賞するはめになった。

純粋に、ありのままを「受け入れられない」物体が土偶だった。謎と不思議と驚嘆の連続。副葬品が多いこともあるのか、あれは「鑑賞するため」のモノではない。大変なエネルギーと強い祈り、何らかの愛の篭りを感じる。疲れた、いやエネルギーを吸い取られてしまうような感覚になった。

仮面の文化?デスマスク?縄文の表現の緻密さ、新羅土器にも繋がっていった部分があると感じる。縄文人が日本に来て、日本に残した土偶。どこから来たのだろう。アフリカのイブが何度も会場で脳裏に浮かぶ。火焔土器に似た土器大作は、実は立体でありながら平面図にすると男女のダンスの様子。

一万三千年前の土の欠片。小さな欠片だったが、想像もできないほどの永い時を経て、眼前に存在する事実。弥生時代に比べるまでもなく某大な流れの中で縄文文化は日本全体を覆っている。縄文人のデザイン、紋様の一つ一つににはこめられてる意味、祈りがあるのは確かだ、と感じる。

かすかに空を見上げるような土偶たち。地を見下ろしている土偶はなかった。時に黒い漆の跡を残し、時に弁柄の朱色を残し、炭化された黒い紋様が炎がつけた紋様にも見え、制作した後にピカピカに研磨され焼成されている土偶や土の作品を見て、大地に生きた一億年もの人間の足跡だと思う。

女体のトルソーから始まり、頭や手足をつけていった土偶。土の塊を四パート接合した方法から中空となっていく。壊されやすい部分を意識したのか、学者の間にも様々な論議があり、定説はないという。輪を積む成形方法が明らかに「壊れやすい部分」を残しているのは接合部分の強弱の不思議。

東博で一番に足を向けたのは、土偶の待つ室ではなく、ある方と再会するため。数年前、ブログで「展示の仕方」に文句を書いたのですが、茶碗の「見込み」が見えない高さだったのです。高すぎて。今日は、かなり低い位置に展示されており、目跡も確認できました。「有楽」様を再訪してきました。

DNAからの考察!これでシュメールとの関係考察もでてくると縄文土器に個人的に「やはり!」なるんですが。。。やっぱり日本人の祖先は東南アジア経由で渡ってきたんだ。http://bit.ly/7arxMe

直感から始まった縄文土器や土偶の紋様、制作の情熱DNA、古代シュメール文化とその後のユダヤ・イスラム・キリスト・仏教との関連。人間の神秘、宇宙の神秘と地球。タギングしてきたことが無理矢理にでなく繋がりが暖かく流れてきている。家族には「シュメール病」と言われるようになったが (笑)。

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posted by 丸山 陶李 at 02:11| 縄文

2010年01月01日