2008年05月26日

Orange peel

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pitouさんから、手作りのOrange peelが届きました。
ショコラで包んだOrange peelも、贅沢な味わいです。

Orange peelのフレッシュな香りが口に広がります。

pitouさん、ごちそうさま!そして、ありがとう♪

なぜか、美味しいものを口にしながらも最近よく考えてしまうことがあります。

昨日のブログに書いた犬猫・ペットの命。
もちろん人間の命。
昨今の政治では容赦なく弱者切捨てが明白になっているし、
こういう「命」に対する意識の低下が恐ろしくも感じられるのです。

それは、すなわち「人権感覚」の希薄さから来ているのではないかと。

人権感覚とは、命に対する畏敬ではないのかと。

インドのマハトマ・ガンジー首相は生前、こんな言葉を残しているそうです。

「国家が偉大であり、道徳的に進歩しているかどうかは、 動物の取り扱い方によって判断される」

飛躍しますが、人の扱いについても、同じことが言えるのではないでしょうか?社会生活の中でも、たびたび感じることがあります。

人間の扱いについてさえ、感じることですから、ましてや犬猫・ペットとなれば二の次ということは容易に想像できることです。

人間って何て、わがままな生き物なんだろう。

自己都合で、命さえ抹殺しようとする生き物って、この世界には人間以外には存在しないのではないだろうか。弱肉強食の世界でさえ、無為に殺し合いなどしないだろう。

「安楽死」と聞こえが良い言葉で、動物を抹殺しているが、その実態は、注射によって、静かな死を迎えられるモノは、ほんの一握り。

実態は、「炭酸ガス」のガス室に押し込まれ、もがき苦しみ、恐怖でオシッコをジャージャーもらしながら殺されている。年老いた動物は10分程度、若い動物では30分から1時間も苦しみ、もがき続けて抹殺される。

迷子や捕獲されて保健所に持ち込まれた犬猫は、飼い主が探しにくるかも知れないので、多少の猶予があるが、飼い主によって持ち込まれた犬猫は、三日を待たず抹殺されるという事実。引き取り手がいないことが明白だからだ。

人間が幸せになる道は、相手を知り「共存・共栄」していく道を模索することではないのだろうか?

人間のエゴが、人間の作り上げた社会、政治、行政、個人の感覚などで、ひときわ目につく昨今である。

コレが実態。

追伸:pitouさんと私の同窓である、元TBSアナウンサーの川田亜子さんが自死されました。
彼女のブログには、
『花は盛りに、つきはくまなきをのみ見るものかはとかいへるは、いかにぞや。』
兼好法師が徒然草で、「花は盛りの時のみ、月は曇りなく輝ている時のみを見るものであろうか。そうではない。」と。。。 今宵はかけていく満月を堪能しますか。。。。

と綴られています(5/21)

深いところで、悩み苦しんでいたことが伺われます。
ご冥福を心よりお祈りいたします。









posted by 丸山 陶李 at 11:39 | TrackBack(0) | 夢は枯野を

2008年05月24日

How Could You...

How Could You... by Jim Wills, 2001
・・・罪無きものからの問い・・・

私がまだ子犬だった頃、私はあなたが喜ぶような仕草をして、あなたを笑わせました。

あなたは私のことを「うちの子」と呼び、
私がどれだけ多くの靴やクッションを破壊しようとも、
私たちは最良の友となりました。

私が悪さをすると、あなたは私を指差し、その指を振りながら、
「どうして・・・?」と問いました。
しかしすぐに、あなたは微笑み、私を転がしておなかを撫でてくれました。

あなたがとても忙しかったので、私の破壊癖は思ったより長く続きましたが、それは、お互い時間をかけて解決しましたね。

あなたに寄り添い、あなたの信念や誰にも秘密にしている将来の夢に聞き入った夜のことを私は今でも覚えています。

あのとき私は、これ以上幸せな生活はないと固く信じていました。
私たちはたくさん散歩をし公園で走り、ドライブし、途中でソフトクリームを食べました。
(あなたは「アイスクリームは犬の体に悪いから」と言って、
私にはコーンしかくれませんでしたが・・・)

私はいつも陽だまりでうたた寝をしながら、
あなたが一日の仕事を終えて家に帰ってくるのを待ちました。

次第に、あなたは仕事や出世のために費やす時間が長くなり、
やがて人間のパートナーを探すようになりました。

私は辛抱強く待ちました。

あなたが傷付いた時や落ち込んだ時にはあなたを慰め、
あなたの決断が間違っていても決して非難せず、
あなたが家に帰ってくると、おおはしゃぎして喜びました。

あなたが恋に落ちたときも、いっしょになって歓喜しました。
彼女−今はあなたの奥さんですが−は「犬好き」な人ではありませんでしたが、
それでも私は彼女を受け入れ、愛情を示し、彼女の言うことを聞きました。

あなたが幸せだったから、私も幸せだったのです・・・

やがて人間の赤ちゃんが産まれてきて、私も一緒にその興奮を味わいました。
赤ちゃんたちのそのピンク色の肌に、またその香りに私は魅了されました。
私も、赤ちゃんたちを可愛がりたかったのです。
しかしあなたたちは、私が赤ちゃんを傷つけるのではないかと心配し、私は一日の大半を他の部屋やケージに閉じ込められて過しました。

私がどれほど赤ちゃんたちを愛したいと思ったことか。
でも私は「愛の囚人」でした。
しかし赤ちゃんたちが成長するにつれて、私は彼らの友達になりました。彼らは私の毛にしがみついて、よちよち足でつかまり立ちをしたり、私の目を指で突付いたり、耳をめくって中を覗いたり私の鼻にキスをしました。

私は彼らの全てを愛し、彼らが私を撫でるたびに喜びました。
何故なら、あなたはもう、めったに私を触らなかったから・・・

必要があれば私は命を投げ出しても、子供たちを守ったでしょう。
私は彼らのベッドにもぐりこみ、彼らの悩み事や、
誰にも秘密にしている将来の夢に聞き入りました。
そして一緒に、あなたを乗せて帰ってくる車の音を待ちました。

以前あなたは誰かに犬を飼っているかと聞かれると、
私の写真を財布から取り出し、
私の話を聞かせていたこともありました。
ここ数年、あなたは「ええ」とだけ答え、すぐに話題を変えました。

私は「あなたの犬」から「ただの犬」になり、
あなたは私にかかる全ての出費を惜しむようになりました。

そして、あなたは別の街で新しい仕事を見つけ、
みんなでペット不可のマンションに引越しをすることになりました。

あなたは「自分の家族」のために正しい決断をしましたが、
かつて、私があなたのたった一人の家族だった時もあったのです。

私は久々のドライブで、とても嬉しかった・・・保健所に着くまでは。

そこには犬や猫たちの、恐怖と絶望の臭いが漂っていました。
あなたは書類に記入を済ませて、係員に「この子によい里親を探してくれ」と言いました。
保健所の人は肩をすくめて、眉をひそめました。彼らは知っていたのです、
歳を取った成犬たちが−たとえ「血統書」付きでも−直面する現実を・・・

あなたは、「パパやめて、ボクの犬を連れて行かせないで!」と叫ぶ息子の指を一本一本、私の首輪から引き離さなければなりませんでした。

私はあなたの子供のことを心配しました。
何故ならあなたはたった今このことを通して
友情、誠実さ、愛、責任、そしてすべての生命への尊重の意味を、
彼に教えたのです。

あなたは私の頭を軽くたたき「さよなら」と言いました。あなたは私から目をそらし、首輪とリードを持ち帰ることさえ、丁重に断りました。

あなたにとって守るべき期日があったように、
今度は私にも期日がやってきました。

あなたが去った後、優しい女性係員が二人やってきて言いました。
「何ヶ月も前からこの引越しのことを知っていたはずなのに、
里親を探す努力もしなかったのね・・・」と。

彼女たちは首を振りながらつぶやきました。
「どうして・・・?」
保健所の人たちは忙しさの合間に、とても親切にしてくれました。
もちろんゴハンはくれました。
でも、私の食欲はもう何日も前からなくなっていました。

最初は誰かが私のケージの前を通るたびに、走り寄りました。
あなたが考えを変えて私を迎えに来てくれたのだと願いました。
今回のことが全部、悪夢であってほしいと願いました。
そうでなければ、せめて私を気に留め、
ここから助け出してくれる誰かが来てくれればと・・・
しかし、幼い子犬たちの愛情を求める可愛らしい仕草には敵わないと悟った年老いた私は、子犬たちの明るい運命を脇目に、ケージの隅に引っ込みひたすら待ちました。

ある日の夜、係員の女性の足音が近づいてきました。
私は彼女の後に続いて通路をとぼとぼ歩き、別の部屋に行きました。
しんと静まり返った部屋でした。

彼女は私を台の上に乗せ、私の耳を撫で「心配しないで」、と言いました。
私の心臓が、今まさに起きようとしている事実を予期し、ドキドキと鼓動しました。

しかし同時に、安心感のようなものも感じました。
かつての愛の囚人には、もう時は残されていませんでした。
生まれついての性格からか、私は自分のことより、
係員の彼女のことを心配しました。

彼女が今果たそうとしている責務が、
彼女に耐え難い重荷となってのしかかっていることを、
私は知っていたからです・・・

かつて私があなたの気持ちをすべて感じ取ったように−。
彼女は頬に涙を流しながら、私の前肢に止血帯を巻きました。
私は、何年も前に私があなたを慰めたときと同じように、彼女の手を舐めました。
彼女は私の静脈に注射の針を挿入しました。
私は針の傷みと、体に流れ入る冷たい液体を感じ、横たわりました。

私は眠気に襲われながら彼女の目を見つめ、
「どうして・・・?」と呟きました。

おそらく彼女は私の犬の言葉が分かったのでしょう、
「本当にごめんなさい・・・」と言いました。
彼女は私を腕に抱きました。

そして、「あなたはもっと良い場所へ行くのよ。」
「ないがしろにされたり、虐待されたり、捨てられたり、自力で生きていかなけらばならないようなところではなく、愛と光に満ちた、この世界とは全く違う場所に、あなたが行くのを見届けるのが私の仕事なの・・・。」と、急ぐように説明しました。

私は最後の力を振り絞り、尻尾を一振りすることで、彼女に伝えようとしました。

さっきの「どうして・・・?」は彼女に対する言葉ではなく、あなた、私の最愛なる主人である、あなたへの言葉だったのだと・・・。

私はいつもあなたのことを想っていました。
これからもあなたのことを想うでしょう・・・
そして私は永遠に、あなたを待ち続けます。

あなたの人生に関わる人すべてが、
これからもずっと私と同じくらい誠実でありますように・・・
THE END.

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posted by 丸山 陶李 at 12:44 | TrackBack(0) | 夢は枯野を

2008年05月18日

電動轆轤レッスン開始

読売日本テレビ文化センター柏「癒やしの陶芸」講座に、
電動轆轤が設置されました。
昨日の講座では、四名の方が電動轆轤を体験。
今後、毎講座で数名が電動轆轤の技術を習得する時間を交代でとっていく予定です。

昨日体験された四名の方も、それぞれ基本の「盃挽き(バイビキ)」をされて、どうにか形にはなったようです。

私自身、手捻りよりも電動轆轤が中心で作陶してきましたので、指導する側としても本領発揮!というところです(笑)。

皆さん、大騒ぎしながらも、初電動轆轤体験は楽しかったようです。後始末も完璧にしていただき、新しい受講生の指導もある私は大助かりでした。

さて、生徒さんの作品が、土曜日の読売新聞夕刊に掲載されます。
受講生の中では最年長(80歳)のNさんの作品「織部花入れ」(下の画像)です。作品が掲載されることは、励みになりますよね。これからも楽しみです♪

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posted by 丸山 陶李 at 11:52 | TrackBack(0) | 陶芸・個展関連

2008年05月16日

ユトリロ・細川護煕展など

芸術都市パリの100年展
ルノワール、セザンヌ、ユトリロの生きた街 1830-1930年
会場:東京都美術館
会期:2008年4月25日(金)〜7月6日(日)


電車の中で、上記美術展のポスターを見て、
「あ!」
と思った。

高校時代、美術の授業で(一応、美大めざしてたんです)模写をした時に、ユトリロの白に惹かれて
この絵を描いた。

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原画に会える!
会いに行かなくちゃ!

カルチャーセンターの生徒で、20代のJ君は、やはりユトリロが好きだと言っていましたが、先を越されたようで、もうこの美術展に行ってきたと言う。思ったより原画は小さく感じたそうだ。

F8号のキャンバスに模写をしたのだが、原画のサイズは何号なんだろうな。

ルノワールの絵も楽しみだ。
渋谷の文化村で「ルノワール・ルノワール」親子二代展を開催していたが、とうとう行けなかったので、上野でルノワールの絵もじっくり見てこよう。

ルノワール展は、何十年も前に東京で見ているが、年月を重ねてから再び見るルノワールの絵から何を感じるだろうか。

■細川護煕展


今年も日本橋「壺中居」での個展のご案内をいただいた。
こちらは、会期が短い事もあって伺えるかどうか・・・。

韓国で作陶していらした茶碗を、また拝見したいのだけれど。
ご本人にも、またお目にかかってお話できれば、と思っている。
都合がつくといいなぁ。。。

5月27日(火)〜5月31日(土)
日本橋・壺中居
中央区・日本橋3−8−5

■市川博一作陶展

京都・清水焼団地での陶セラピー・ワークショップのお世話をしていただいた、市川博一さんの個展です。

5月17日(土)〜24日(土)
渋谷・神宮前「うつわ一客 東京店」
渋谷区神宮前4−7−3(表参道より徒歩3分)

市川博一さん在廊日・17.18.24日

■奏陶会四人展

東京芸大陶芸科助手の佐藤典克さん出展です。
栗原 慶・森口 直洋・宇多田 理恵・佐藤 典克四人展

5月13日(火)〜19日(月)
日本橋三越本店6階美術サロン

佐藤典克さん在廊日・13.15.16.18.19日

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なんだか、知り合いの個展が目白押しです(笑)。
DMいただいたのに、行けなかったら、ごめんなさい。

ご興味のある方は、是非どうぞ!

posted by 丸山 陶李 at 00:10 | TrackBack(0) | 陶芸・個展関連

2008年05月13日

深淵より

信仰の深い淵より綴る。

キリスト者にとって、「復活」は信仰の中心であり、すべての希望でもある。

曲がりなりにも、信仰と呼べるものを身体の中に、精神の中に、生きる軸として生きてきた。

しかし・・・。

今、私は信仰の深淵を味わっている。逡巡している。
愛を疑うことはしない。
愛を信じたことを疑いはしない。
愛された記憶を亡くすこともしない。
愛したことを悔やみもしない。

逡巡の中で脳裏に浮かんできた言葉を携帯にメモしておいた。

「人間、しあわせに生きるために生まれてくるとは限らない」

「できないこと、しないことのほうが大切なのかもしれない。できる、するが邪悪な人間を作る。」


母の死後、私は信仰の真髄でもある「復活」が信じられなくなっている。重い気持ちで胸がふさがれる。

死んだら、何もない。
生きているうちがすべて。

そんな思いが、何度も何度も押し寄せてきて、今は、そうだと考えはじめている。

「千の風になって」という歌に励まされもしたが、それも空想。そうであったら、という生きているものの慰め。死んだら何もない。。。

生きているうちがすべてだとしたら、人間しあわせに生きるために生まれてくるとは限らない。そう思う。

「もしあの世がなかったら、私はいっぱい食わされたことになる。でも愛したことを後悔はしない。」−−−ビアンネ司祭の言葉だったと記憶している。

信仰の深い悩みは、私を瞬時に深淵な世界へと引きずりこむ。

母の死を思うたびに、残った家族を思うたびに、命と一生は何のために与えられてるのか?と、人間の悲哀を味わう。苦しみから解放されるのは死を迎える時しかないのか?と重い気持ちになる。

母の遺影を見るたびに、なんでこんな優しい表情でいられたのか、と不思議に思う。

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posted by 丸山 陶李 at 00:37 | TrackBack(0) | 夢は枯野を