2008年01月27日

白一考察

粉引や白磁など白い陶磁器のフォルムは、白いが故にごまかしがきかない。

パーフェクトなフォルムにしろ、歪んだフォルムにしろ、素のままで存在を訴えてくる。

私は、パーフェクトなフォルムも、歪んだフォルムも、どちらも好みではあるけれど、白という色が持つ様々な感覚・感触に惹かれる。

言葉で表現すると白という一文字ではあるけれど、白が含有する色合いは実に様々であり、白からイメージングされ、触発されるものも多々ある。

高校時代に惹かれたユトリロの白は、パリの街の壁面を暖かなものに感じさせてくれた。複雑な色の重なりや削げに寄って白一色のなかに、ほんのりとピンクやベージュなどが見え隠れしていた。

美術の授業で油彩画の模写をした時、私はユトリロのパリの街角を描いた作品を選んだ。原画を何度も見つめているうちに、ユトリロの白は、複雑な色の重なりであることに気づき、それから白の表現にはこだわるようになった、と記憶している。

以来、数十年経過した今も、白という色には特に惹かれている

陶芸家となるきっかけとなったのも、中学時代に出会った志野(桃山時代の日本の陶器)の白い色と風合いに、とてつもない魅力を感じたからである。

その後、志野との出会いから、大学時代には李朝の陶磁器へと発展し、李朝白磁から、特に李朝前期を代表する粉青沙器の粉引へと導かれていくことになる。

パーフェクトなフォルム良し。
歪みをもつフォルム良し。


白という色は、凛とした中にも、母性のような赦しを備えた包容力を持っているように感じている。

李朝白磁の魅力の一つには、現代の白磁にはない、半磁器質な柔らかい胎土を用いているが故に、パーフェクトな美の中に、茫洋とした暖かさを感じさせられることがあると思う。

粉引についても然り。
真っ白な陶器でありながら、たっぷり掛けられた白泥にねっとりとした当時の透明釉が掛けられ、比較的低めで焼成されたが故に、柔らかさを持つ陶器となっている。


近寄りがたいパーフェクトな真っ白い陶磁器のイメージとは一味違う、傍に置いて語り合えるような愛くるしさを持っている。

こうして考えてみると、私達人間は不完全であるが故に、パーフェクトにあこがれつつも、不完全な中に居心地の良い、心地良さを求める存在なのかもしれない。

私の粉引の提灯壺。
ほんのりと薄紅色の御本が現れていて、自画自賛だが、白一色ではない複雑な白にユトリロの白のように惹かれるものがある。

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posted by 丸山 陶李 at 14:24 | TrackBack(0) | 夢は枯野を

2008年01月21日

歌う陶芸家

大寒。。。
雪かと思っていましたら、雪は降らず。
東京の寒さも、札幌と比べたら何のその。通勤電車の中では汗ばむほど。

おとといの土曜日には、読売日本テレビの講座があり、
新年初の陶芸講義でした。
見学者に若いお嬢さんが一人。
うちのクラスは、20代から80代まで年齢層が広いけれど、年齢のギャップなど全く感じない。エイジレスなクラスです。
生徒さんたちは、素焼きした作品の釉がけで大忙し。
本焼き焼成も、間もなくです。

柏の市民ギャラリーで千葉県生涯大学・陶芸受講生の皆さんの作品展示会をしていると私の生徒さんが見てきた様子を教えてくれましたので、講座終了後、生徒さんたちと会場へ。
一人の作家の個展は、技法も限られますが、100人の受講している講座の展示会は、様々な個性や技法が垣間見られ、参考になりました。
ご一緒した生徒さんたちも触発されたよう。
今後、どのようなオリジナリティがでてくるか楽しみです。
帰りに生徒さんと、美味しい天ぷら蕎麦と、白玉アイスで一息(笑)。

クリスマスから年末年始、ひどい風邪もひくことなく、比較的元気に過ごして参りました。

クリスマス・イブもクリスマス当日もバイトがあり、夜遅くまで仕事をしていましたが、上司から「イブも働いてくれて、ありがとう!」と、シュークリームを一つプレゼントに頂きました。これが、作年のクリスマスの思い出。
シュークリーム一つと言いますが、思い出すたびに心が温かくなります。上司の自腹を切っての、お心遣い。本当に良い思い出となっています。

そして、年始明けに、気心の知れた仲間たちと「銀座 太昌園(GINZA TAISHOEN)」で焼肉。
遠くからフィアンセと共に参加したTさん、しあわせそうでした。
みんな良い人たちだな。ホントに、気を遣わないで楽しい一時でした。その後、カラオケに流れ、思いっきり新年歌い初め(笑)。
あ〜、すっきりした(爆)。
歌う陶芸家です(汗)。
 ↓

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合唱団から遠ざかり、古楽仲間とのコンソートで集まることもない最近。やっぱり音楽は鑑賞よりも実践が楽しい、と思いました。
東京近辺の古楽仲間は、皆プロばっかりだし(涙)。
気楽に集えるアマの仲間が欲しいこの頃です。

ところで、バイトですが、一月より都心の本社に転属となりました。快適に仕事をしています。
仕事が終わり、電車から街に点るネオンなどに目をやりながら、心地よい疲れとともに充実感を感じています。陶芸家の自分も好きですが、こんな自分も好きなんです。
帰りに軽くグラスワインを一杯、知り合いと口にすることもあり、都心の勤務になって、よかったぁ!と感じてます。
posted by 丸山 陶李 at 20:51 | TrackBack(0) | 夢は枯野を

2008年01月16日

セヴァン・カリス・スズキ - 環境サミット1992



1992年の6月11日、ブラジルのリオで、国連の地球環境サミットが開かれました。そこで、カナダ人の12歳の少女セヴァン・スズキが、世界各国から集まったリーダーたちを前にして、6分間のスピーチをしました。
その内容は、人々の強い感動を呼び、世界中をかけめぐりました。

このYou Tubeの動画を紹介してくださったのは、私の愛犬フォルクスの姉妹であるルララちゃんの飼い主さんです。

私自身、「チームマイナス6%」に所属していますが、年末年始の各テレビ局で報道された地球の様子を見てから、心の中で「人間という存在は素晴らしい。英知をもち人々とシェアする姿は美しい。反対に、人間って何て邪悪な存在なんだろう。この地球を地球上の生物を絶滅の危機に老い込んでいるのは、他でもない私達なんだ。」とモヤモヤとした思いを抱いていました。

セヴァン・カリス・スズキという12歳の少女が、各国の代表者たちを前に、大変重要な意見を述べている姿に感動しました。
今、彼女は、どんな大人に成人し、この地球上の状態を、どう感じているのでしょうか。

2002年のセヴァン・カリス・スズキの記事を検索で見つけました。今もオピニオン・リーダーとして活躍していることでしょう。

6分間の動画ですが、皆さんに見て頂きたくて、紹介させて頂きました。
posted by 丸山 陶李 at 20:33 | TrackBack(0) | 夢は枯野を

2008年01月01日

井戸茶碗発表の年

新年あけましておめでとうございます

2007年から2008年と新しい年を迎えました。
皆様に恵み豊かな一年となりますよう、
また希望に満ちた日々となりますよう、
年頭にあたり心よりお祈りしております。


降誕節でもあり、神の母聖母マリア様の祝日でもある元旦にあたり、
今年は私の井戸茶碗を発表する年にしたいと私自身、大きな希望を抱いております。

大井戸茶碗にはキリシタン大名の高山右近のお名前を頂いて
「右近」と銘名することを、心に決めております。

もう一つ井戸茶碗が発表できたら、私のクリスチャンネームでもあるガラシャ(細川ガラシャ)から、お名前を頂いて「ガラシャ」(ラテン語で恩寵)と銘名できる井戸茶碗も発表したいのですが、一つだけでも・・・。と願うことに致しましょう。

昨年一年を振り返り、目にし、耳にした事象から、深く思いを致すことが多くございました。
はらわた動かされる=compassion
こんな思いを幾度も体験させられました。


新年の冒頭には、ふさわしくないことかもしれませんが、私は、多くの涙を見、人々や自然の叫びを聞いたように思えました。

自分をも含めて、おそらく人間は何処に向かって生きているのか?先人達も熟慮し、模索してきた問題を、何度も考えました。多くの現存する人の営みの中から、時には大自然の事象から、
まるで花が咲き花が散るように、一瞬の煌きの如く、回答を垣間見たように感じることがありました。

しみじみ思う事は、確かに何事も時間が必要だという事でした。
物事の見方、感じ方、味わい方、五感を駆使して追求しても、真髄が理解できるようになるには、時間が必要だと言えるのかもしれません。

若い頃には見えなかった事、感じ得なかった事など年を重ねて見えてくるようになる。これは私達が生涯未熟でありながらも、時間のなかで成熟していくような感覚とでも申しましょうか、言い換えると深く豊かになっていくには時間が必要だと思えるのです。

時に天才と言われる人々には、こういった時間の積み重ねを跳躍した識別能力が備わっているのかもしれません。

私は凡人ですから、時間が必要なのだと実感します。
ちっぽけな才能も恵みでありますから、その恵みを生かしながら、時間をかけてコツコツと地道に自分を修練していくしかないものだな、と実感しているところでもあります。

さて、昨年、私がはらわた動かされるような思いで受け止めてきた事象の数々も、私という一人の人間の血のなかに取り込まれたように感じています。私という一人の人間が成し得る事は限られていますが、精一杯、陶という表現の中で濾過して生かしていければと考えています。

人の一生の長短、人一人の生命は、一体何の意味があるのだろう?一人の存在は一体何のためなんだろう?と大自然の中で考え込んでしまうことがありますが、与えられた時と所で希望を失わずに夢をもち、地道に歩んで行きたいと願っています。

大きなことや有名になることは、おそらく自分の道ではない、ということが、この年になりわかってきました。私の感性で、私の作品に真摯に向かい合い、丸山陶李といういう命が、いつか千の風になって吹き渡る日が来る時にも、作品を通して、見知らぬ人々の心に、ささいな感動や希望、なにかしらの心揺さぶられる思いを感じていただけたら、それで本望だと思うのです。

年頭にあたり、肩肘はらず、ありのままで・・・、でも残された時間を思い、身を引き締めて制作して生きたい。そう思っています。

涙のうちに種まく人は、喜びのうちに刈り取る(聖句)


本年も、どうぞ宜しくお願いいたします。

posted by 丸山 陶李 at 02:30 | TrackBack(0) | 井戸茶碗